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定年後
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私の生まれたところは西宮千歳町 阪急神戸線夙川駅東南の一角(今は立派な住宅地)とある薄暗い長屋の一軒家だったが全く記憶がない。だからこの写真2枚で責めを果たしたい。

(写真2 祖母はるに抱かれて)

( 写真3 一緒にいるのは近所の女の子)

さらに清水町 (写真4 妹小草と)へと住居を変えるが この時期は親父夫婦が揉めていた時代で、別に面倒を見なくても良かった祖母(はる)と同居(親父は三男だった)が原因で母は度々福井の実家にもどっていたようだ。この時分福井だったと記憶している、雪の降る自動車の中、何故か親父と二人だけだったが、涙をハンカチで拭っていたのを今も鮮明に覚えている。涙を流さねばならなかった理由は分からないが。子供三人もつくって夫婦仲が悪かった訳でもないのに。

(写真5次女やよい 南郷町にて)親父は当時いわるハイカラだったようで、お袋の兄と上手くいってなく、それも一つの原因でなかったかと勝手な推測をしている。それはともかく、当時満州から(父は大阪商業学校卒業後満鉄に就職)帰日し来阪生涯の住居として夙川に目を着けた慧眼は流石だと思う。その後、南郷町へ移り2.26事件を味わうわけだが(小学校4年写真1、5)。

軍国主義やかなりしこの頃「 肉弾三勇士」の美談が世に騒がれていた。32年上海事変での国民的英雄の話である。三勇士を讃える歌もあった位だ。ほんとのことは「三人破壊筒の導火線に火をつけ走って行って鉄条網に突っ込み,素早く帰ってくる予定だった様だ。ところが途中で躓いたか弾丸に当たったかで一人が倒れ時間をとってしまった為、三人は逃げ帰りかけた。すると伍長が天皇のためだ!国のためだ行けと怒鳴りつけたのでまた引き返した。破壊筒を抱えて鉄条網に着いたか着かぬかに爆発したそうだ。命令に背くと銃殺されるのが普通だった時代同じ死ぬならと思って進んだのだろう。なんと非人間的な話ではないか。
歌と言えば記憶に残っているのは日露戦争の時だったか広瀬中佐が旅順港閉鎖の折沈み行く船で部下の杉野兵曹長を「杉野はいづや杉野はいづこ」と悲壮な叫び声を上げ捜し求めた歌を思い出す。同じ軍国時代でも1903年頃の明治と、32年頃の昭和の時代でかくも異なってくるのか、部下への思いやりの相違が如実に伺える。それはとも角、南郷町は住友系のお偉方の住宅地でもありこの家も半永久的に住む積もりで建てただけに庭も池もあり立派なものだった。その家も何故か僅か数年で売り渡し久出ヶ谷町、末広町と転々とし小学校6年の頃やっと満池谷町に落ち着きここで青春時代まで過ごす事となる。
小学校時代(小学校1年生34年4月入学当時 写真6 小学校2年生 写真7)を思い出してみよう。


私の小学校安井は名門校であり後々の大阪労災病院院長阿部裕先生も井小学校の先輩であり数多くの高名な先輩達が輩出している。その当時この地域には大社小学校と二つしかなかったが自分が中等教育しか受けられなかったせいか教育に熱心な父は安井校を選んでくれた。1年から3年まで松本仁一先生、4年から6年まで遠藤弥太郎先生と3年の間一人の先生が担任であった事も幸いした.前半の3年間は音楽、絵画を主とした情操教育を、後半の3年間は学問の厳しさを教えられた。松本先生は白浜、天橋立などあちこち教え子連中を連れて行かれそれにお供した懐かしい思い出もある。



(写真8、9、10、11)また小学校3年の頃だったと記憶しているが唱歌が上手かったらしくクラス代表によく選ばれたものだ。この時代テープコーダーもなく録音出来なかったのが残念であるが (記録に残しておく事の大切さ!!)それに加えて父の従妹に当たる内村氏が習字の先生をしており安井小学校の前でその塾を開いており習っていたこともあり習字も得意だった。(この記録は写真15に残っている)
これに対し遠藤先生は勉学に厳しく“成せば成る成さねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり”の意気込みを幼い心にたたみ込むように言われていたのを思い出す。言うまでもない米沢藩主上杉鷹山の言である。後年、自伝“教育行脚五十年”の中、第四章安井小学校時代にも記されているが、この学年の出来のいのに驚いておられる。安井小学校時代の書き出しにこう書かれている。「人間万事塞翁が馬」昔の人はよい事をいっている。人間は何が幸になるかわかったものでない。幸か不幸かではなく、幸にも安井校に転勤させてもらったことは、神の助けであった。毎日毎日喧嘩ばかりしていては、人間はしまいには力がつきてしまう。青春の私も三十歳台にはいっている。そろそろ矛先も鈍ろうとしていた。もしあのまま島田校長の下にいたら、だんだん丸められて、自分の個性を失って売名校長の真似事をするような校長で終わったかもしれない。安井校転勤はまことにありがたい転出である。――中略――{まるで夏目漱石現ぼっちゃん版である}さらに続く普通一.二番は神戸一中か北野中学かといったところであったが私のころは北野中学の希望者は全なかった。だから神戸一中、甲南、尼崎中学といったところから関西学院、西宮商業、神港の受験者で大体うずまっていた。現在(昭和四十八年)四十六歳になって男ざかり、働き盛りの人生行路を歩んでいるが、私の頭の中にある卒業生の学歴の一端を書き残しておく事にする。東京帝国大学(現東京大学)出身は松尾鉄雄君と村上洋君の二名。京都帝国大学(現京都大学)出身は河内清君(工学部)、渡辺亨君(工学部)、西村功君(農学博士)の三名以外に京大在学中惜しくも亡くなった能勢紀和君をあわせると京大は四名の入学者である。名古屋帝国大学(現名古屋大学) 出身は小松英一君。大阪帝国大学(現大阪大学)出身は武居明君、山村寛君(後父の名を襲名山村徳太郎君)富久正三郎君の三名。外に北海道大学出身の山本博三君、慶応大出身の今井一郎君、上智大学出身の河内信行君、岐阜大学出身小松原行君、京都府立医科大学出身伊藤篤君(出版後わざわざ追伸として頂いた手紙に私の印象としてー昔の安井小学校時代の熱心な真摯なこつこつと一心不乱な姿は今も目の当たりに彷彿させるものがあります。国語や算数の整然とした美しい字は今もはっきりと私の脳裏に奥深く刻まれています一度焼きついた強烈な印象は生涯消えないものでしょうーと記してあった)大阪市立医専後の大阪市立大学医学部出身黒田実君(両君とも現在医学博士)等その他多士済々の人材が轡を並べている。 とにかくどんな点からいっても素晴らしいが特に一般普通の公立小学校の一クラスの出身者の中に十数名以上の者がかくも有名大学にずらりと席をおいたことはなんといっても特筆すべき偉観だとっている。教壇に立ってまさに十年男盛りの三十歳台にこのような能力あるクラスとの出会いに不思議な縁があったことを神の恵みと今も感謝の念にたえない。教育書一冊さえ読まない教師としては失格の私が、森本大物校長のもとに私のもてる力のすべてを捧げた、唯それだけのことである。五十年の教員生活中の最高潮の時代といってよいかも知れない。と更に続いているが。後年遠藤先生を囲んでのクラス会78年12月の 写真(12)である。中央に遠藤先生と私、向かって右が武居明君、左が黒田実君(故人)その隣が涌島君とわれわれのトップだった松尾鉄男君の笑顔も懐かしい。当時、灘、甲陽はこれらの滑りが入ったもんだ。今は両先生も亡くなられ又小学校のクラス会もなくなったが。

小学生の思い出の写真として37年頃の家族写真13及び39年頃の写真14を残しておきたい。 (紅顔の昔なつかし美少年)


面白いエピソードがある。小松英一君の記憶として遠藤先生はこう述べておられ。多くのえ子の中でこれほど愉快な生徒はそう多くはあるまい。えてしてインテリ階級の子弟に中にはがり勉が多い。そんな中にあって小松君は異色の存在である。 お母さんはすばらしい賢母であった。真の教育ママといえよう。世の多くの似非教育ママのもって手本とするに足るべき人である。お母さんはあるときこんなことをいわれた。「私は子供の小学校時代六年間鉛筆は一度も子供には削らさず全部私が削りました。それは鉛筆の使用程度とノートを見ると、学校での勉強状態をそれとなく知る事が出来る。」と、流石小松君のおかあさんだけあって着眼点が異なっている。――中略――兄の小松君より弟の方が世間には名がよく通っている。今売り出しの作家小松左京氏はすぐ下の弟である。
何故小松君のことを引っ張り出したか。何を隠そ 実は小松君とは竹馬の友であり、社会人となってから私の妹小草と暫く交際をしたこともあり、驚くなかれ美沙子が 私との前に お見合いをしていたことである。この若松台に居を構えてから一度私の宅に一泊した事がある。例の如くバイオリンをもって。かって自分の指をしめし左が右に比べ長い事実を示した事を思い出した。それほどバイオリンに熱心だったことを言いたかったのであろう。それは兎も角美沙子との再会の反応を見たかったのだが。分かっていたが分からぬ振りをしていたのか全然分からなかったのか、いまだもって分からない。遠藤先生が言われたとおり面白い愉快な男である。 写真9,10,11で矢印が私、二重矢印が小松君である。
遠藤先生が追想として語られたうち 神戸一中の内申書の欄に「小松君は貴校を受験する。安井校では従来クラスで2、3番以内のものが常に受験している。今回受験する小松君は序列こそ2,3番の中には、入っていないが、実力は十分持っている。序列が下だからといって冷やかし半分の受験ではない。試験の結果が即実力と判断してもらっては困る。と。本人はといえば入試当日漫画の本をさも楽しそうに読み耽っていたようだ。見事失敗、甲陽中から四修で松江高 名古屋大 三洋電機と進むわけだがこんな優秀な彼より又良妻賢母を持ちしかもバイオリンが好きだからピアノを弾ける女性をと望んでいたに違いないのに彼りも私を選んだ理由は?恐らく彼のそういった態度 人を食った面が不真面目と写ったに違いない。見合いという入試の面接に近い雰囲気の中ではいたし方ない所だが。
竹馬の友と言えばもう一人河内信行君も加えてをかねばなるまい。お父さんは 宝塚歌劇の重役お母さんはと言えば小松君のお母さんに ひけをとらぬほどの良妻賢母だった。彼は六甲中から上智へのコースをとっlたが。現在どうしているのか 何をしているのか分からない。
この二人の賢母に比べ私の母はいささか見劣りはするが。
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1962年5月~1966年6月の間労災病院に於ける岡部長下での私の活動について述べる事とする。そもそもこの大阪労災病院は62年当時 馬糞、牛糞だらけの畦道 見渡す限り田畑の長曽根の田舎のど真ん中に、いや言い換えれば田園調豊かなこの町に建った堺市きっての近代的高層ビルであり他を凌ぐこの建物は同時に関西於ける全館冷暖房設備を持つ唯一の公的病院として世の注目を集めもした。驚いたことに廊下は贅沢といっていいほど十分広くとってある。ところがこの立派な廊下に平気で唾を吐く人がいた。唖然とした。およそこの建物に似つかわしくないと思ったのは私一人ではなかったろう。なんと民度の低いところだなァと思った。.私の第一印象である。大和川以南とはこんなところか。夙川に生まれ育った私の偽らざる感想であった。
何はともあれこんな環境下に出来た大阪労災病院も当初は外科、整形外科、内科等診療科目10科で500床の収容能力であり将来必要に応じて数科が追加される事を想定しながらレイアウトされたものだった。
62年4月19日武田教授より直々に電話で転勤命令があり翌20日には労災病院開院式が行われた小沢先生から武田先生に教授がバトンタッチされた直後のこと教授の意に沿わない人事はかくも間際まで放置されたものである。岡先生、鯨岡君、の3人で発足した。鯨岡は小児外科を専門に情熱を燃やし、私は主に外科学会は勿論の事、胸部外科、胸部疾患学会、肺癌学会、癌学会、循環器学会、脈管学会、麻酔学会等幅広い活動を強いられていた。64年には医員も奥、得能、坂本(後の東口)内藤と7人になっていた。私はこの当時特に低体温下開心術に心血を注いでいた。私の学位の仕事にも関連していたし何より小沢先生の強い願望だったから。人工心肺による心臓手術より低体温による心臓の手術の開発を夢見てをられたからだ。私にその夢を託されたのであろう。だから広島市民病院(田口部長)岩手医大(岡村助教授)への見学も許された所謂武者修行である。外科の腕を磨く良い機会でもあった。だからこの時分、低体温下開心術の演題が多かった。曲直部先生の人工心肺に対抗しての低体温による開心術だった。
一方消化器外科に関心のあった私は(消化器外科学会の発足は確か1968年)その盲点でもある膵臓の診断に 有効な方法は無いものかそれが夢でもあった。血管造影からその神秘を探ってみようと思いたった。後になってSeldinger法が一般的となったが膵血管造影法について脈管学会などで発表してきた。その成果があったのか66年4月第66回日本外科学会総会(慶応大)で本庄一夫教授(京大)のシンポジウム”膵癌の早期診断”のシンポジストに選ばれた。(写真34)

シンポジストの鶴見先生は教授に尾崎先生は癌研外科部長に夫々なられた。外科学会のシンポジウムに指名された所為もあってかまた小沢院長の低体温下手術に夢を託されたのか4月27日次期部長の内命を受けた。小沢先生の方針としてあらゆる分野に手を出さないといけなかった。若い医者は早くから固まってしう様では見込みが無い あらゆることに好奇心を持って。それが出来るのは若いうちしかない。と言うわけである。だから整形外科、脳神経外科、泌尿器の分野までなんでもしなくてはならなかった。当直に役立ちその自信を強固なものにしてくれた。一外では武田教授から曲真部教授へと、即ち肺外科から心臓外科へと世代は変わっていく。
62年5月12日雨の中労災病院公舎C-5へ移転した。舗装もされておらず雨が降れば泥んこで歩行にも苦労したもんだ。公舎の向かいには美沙子の親戚でもある放射線科の宮田医師の家族がをり何かと心強かった。家族同士の付き合いが始まる。後々自動車整備士奥井氏らと共に夏の家族旅行も計画された。自動車も63年8月トヨペットがオイルトラブルでセドリックに買い換えた。奥村土木業から譲り受けた車でヘッドライトが縦目のほかは申し分がなかった。64年夏休みを皮切りにドライブがはじまる。この年には関が原ー養老の滝ー下呂温泉ー乗鞍山頂 65年広島厳島神社ー宮島ー関門トンネルー別府温泉ー熊本城ー長崎 66年東尋坊ー金沢ー能登半島ー輪島ー和倉 67年湯原ー大仙ー鳥取砂丘ー皆生温泉 68年池田ー大歩危小歩危ー高知播磨屋橋ー今治ー高松ー徳島 69年恵那ー美ヶ原ー丸池ー白根ー草津ー白樺湖ー諏訪湖ー亀山と冷房の無い若さ故できるドライブを楽しんだ。
二人の子供たちも羽仁素子が主催する幼児生活団にお世話になり子供を中心とした交友の輪が出来た。大田夫妻(画家と生活団主任) 常盤教会牧師牧浦、大阪府大助教授山内、文筆家庄野、速見、婦人科医師森嶋それぞれ夫婦と。
30歳後半にもなると健全な欲望として自分の家(庭付きの)を持ちたくなるものだ。あちこちと物色した。幼い頃夙川にいた頃は麓麓壮を夢見ていたがサラリー月額4万そこそこの給料では到底無理、美沙子の反対を承知で病院近くの泉南地域に土地を求めた。信太山向丘団地,泉丘団地、金剛団地、鈴蘭台など申し込んだが結局一番近くの泉丘に決めた。堺に居を決めるには予想道理強靭な反対もあったが労災病院に近い事を理由に強引に決めざるをえなかった。今だにこの土地には馴染めないでいるようだ。その理由として余り大きな声では言えないが先ほど述べた民度の問題、交通機関の問題、流通の問題等々阪神間夙川との違いが多々あるようだ。
一方目を病院に移せば自動車の主治医でもあった奥井氏の媒酌もした。々になって立場上媒酌を数組したがこれが最初の一組となった。奥井氏が入院の際病室の婦長だった彼女が縁でカップルとなったようである。 また上田安子服飾学院の上田氏自身が入院、受け持ちになり種々お世話をした。山崎豊子の小説”女の勲章”のモデルにもなった人である。
(写真35内科と共観だったので共に写っているのは内科和田温教医師)

この頃から小沢院長の健康状態 思わしく無く入退院を繰り返してをられ。始めはリュウマチの診断だったが後にはSMON病という奇病、四肢の麻痺を主訴とする病名に落ち着いた。当時整腸剤としてよく使われていたキノホルム製剤が原因とされている。
66年は1月に洋子ちゃん10月には斐男氏の結婚式が続いてあり興地家は特にお母さんは大変だったろうと思う半面これでやっと落ち着かれたと安心もした。
66年7月外科部長心得の辞令を戴いた。余りにも若かったからか心得が付いていた。これには小澤先生大変ご立腹の様子だったが。そんな事は十分こころえていた。以下86年5月副院長までの約20年間の苦難でもありそれなりに楽しかったそして人生で最も勉強もした医者としてよき時代の外科部長時代を振り返ってみたい。部長心得の期間は2年間だったように記憶している。それはともかく 曲直部教授のご配慮でスタートは野崎、松山、木村(研修医)を加え得能、吉田、東口の古参の各ドクター計7人であった。俗に7人の侍と後になって振り返って言ったもんだ。 奥副部長は近畿中央病院心臓外科医長へ、鯨岡は大阪小児保健センター外科医長へとそれぞれしかるべき病院へ配置転任された。さあ七人の侍の船出だ。やらねばならぬまたやりたいことが山積している。まず手始めに労災病院というからにはそれらしき仕事をやらねばと白蝋病(振動病)に目をつけ国分砕石所やら奈良五条の森林伐採夫の手指プレチスモグラフィーのデーターをまとめることにした。労働者のそればかりでは色気がない、こればかりでは若いものも興味がなくなるのではないかとゲビート をタイピストまでひろげた。若いふくよかな女性の手指も手がけるようになり仕事も捗った。それで災害医学会にもなんら遠慮することなく全国労災病院のいろんな会合に部長として顔を出せるようになった。
学会としても先に述べた他に臨床外科学会、災害医学会は勿論のこと全日病管理学会、癌治療学会、超音波医学会、内科部長として河田肇先生がお見えになった関係から消化器病学会、肝臓学会にも名前を連ねざるをえず計14の学会費だけでも馬鹿にならず苦労した。
ゴルフを始めたのも42歳の頃だからHDCPは21がいい所,基本が大事とばかり上田梯三プロにつくこと数年、2、3年後には大体50代で回れるようになった。その代わり全国のゴルフ場は荒らしまくった。学会を利用して。わざわざ持ち運びしなくても宅急便と言う便利な運搬業者が出来たのも手助けになった。本職の面でも手当たり次第の勢いだった。今から考えれば無茶な話だが。GGーInj.(ガッセル氏神経節内アルコール注射ー三叉神経痛注射療法小澤先生独特の治療法でそのテクニックを身に付けるべく苦労した) 膵頭十二指腸切除(Child-Op)ボタロー氏管閉鎖術(写真36)手術場にてー産経新聞より取材)

一方大阪基準局では局医として院内外で縦横の働きを欲しいままにした。ところが始めから意にそぐわぬ病院だった小澤先生には面白くなかったのであろう。1967年5月12日唐突に辞任の発表、かねてより意中の香雪記念病院にその本拠を変えられた。
1968年第二代院長として今泉礼治薬理学教授決定 ~1980年までの約12年間基礎医学の学者が臨床病院を君臨されることになるかえって私達臨床家にはやり易い。他の病院へのアルバイト(時間内での)には厳しかったが。当然のことだが。この年には7人の侍に寺下君(第二病理)も加わってくれた。また7月には清島啓次郎君(PL教団健康管理センター所長)も外科の一員として戦力になってくれた。PL教団といへば後々スタッフに加わってくれた中尾照逸君もそうだが二人ともPLという宗教の熱心な信者であり無宗教に近い一般のわれわれとは違った雰囲気を持った純粋な生一本な性格の持ち主でありこちらが真剣に対応すれば真摯な態度でそれに応えてくれる。技術を学びに来たといえ素直な嘉すべき人物だった。
またこの年は関西労災病院にあった看護専門学院を本院に引き取り看護師養成をも依頼されている。91年には第五代校長としてこの看護専門学校を任された位だからこの時分から若い女性の心理を勉強してをくべきだったと後悔している。なにしろ身近にエビデンスとなる筈の若い女性がワンサといるんだから。
(写真38)

またこの年には小澤令夫人の手術をも 香雪会で執刀さしてもらっている。
1969年正月伊藤家(満地谷)で最初の膳、小辻計14人の新年会が行はれている。お袋も60歳をすぎ年に1回とはいえ10人以上の大所帯の切り盛りをするはすこし大変だったかもしれない。あのお嬢さんでは。当外科では研修医木村君が大室君に、それに寺下君、清島君の2名の計9名がスタッフとして加わってくれた。対癌協会から10万円の協力費をいただき9名のスタッフも私を始め消化器外科に大いに力を注ぐ意欲がわいてきたのである。ところが教室の人事は無情なものである。野崎君は他院へと交代に横田,宗田君が研修医として派遣されてきた。頭数さへ揃えばいいのである。 それに脳外科をやるべく研鑽を積んできた松山君、寺下君が開業希望 松山君の代わりに狩野君が和歌山医大岡外科から三島君がうまくしたもんで来てくれ10名で外科を運営することなりこの年は人事で苦労させられた。
反面 目を社会に転づればアポロ11号が月面着陸成功(たしかアームストロング)院内でのトピックとて内科の河田部長、それに泌尿器科岩佐部長の3人会,7月婦人科新設され部長に河田先生(内科部長の弟) X科には森部長決定など嬉しい話もあった.私的には重谷ー伊藤両家の媒酌の目出度い話もあった。
1970年も人事の交流が激しかった。横田が退き小林が、東口、大室の代わりに南波、大田治幸が、研修医として鈴木が、和歌山医大(岡教授)からは三島の代わりに田上が、当院独自の研修医として韓がそれぞれをり計10名の所帯で賄っていた。新旧とりまぜ。2月には結婚13周年として雄琴へ琵琶湖大橋完成を祝し、4月には西館落成式小児科の診療が開始された。8月の例年のドライブは椿ー新宮ー瀞ー那智の滝ー中ノ島ー鬼が城ー潮岬。私事で恐縮だが9月には禁煙している。狭心症の発作に恐怖心をいだきつつ。にも拘らず翌年2回もその発作に苦しんでいる。
1971年の一大イヴェントはなんと言っても8月29日若松台の新居に引っ越したことであろう。山口芳春一級建築士による一世一代の肝いりの設計に私の希望も若干取り入れたものであった。2月に設計が始まり 4月7日地鎮祭 12日着工 5月14日棟上 という工程である。特徴といえばその屋根にある。写真をご覧いただきたい。下の写真(39) がそれでわざわざモデルがやって着て日本板ガラスの宣伝に使ったぐらいだ。

右の写真(40) は増築(美沙子の部屋として)後。

今でも気に入って使っているのが二階座敷の広縁である。この座敷の天井には専門的な素人には分からぬ工夫が施されてある。
外科のスタッフといえば得能、吉田は勿論のこと、狩野、南波、大田、小林、宗田、森、鈴木、三島に代わり田上、韓の定員10名は変わっていない。
この年消化器外科学会の発足があった。
8月の例年のドイヴは伊豆半島石廊崎、修繕時、登呂遺跡、浜松。
1972年で特筆大書すべきは泉北ロータリークラブへ入会勧誘されたことだろう。ロータリーと言えば遥か遠い我々とは無関係な存在との認識だった。しかもこの泉北地区に新しく作るクラブのチャーターメンバーとしてである。その昔大阪北RCのメンバーだった小澤先生の卓話のお手伝いにご一緒したことを思い出した。 堺東ロータリーと共に同時の門出だった。当時堺には堺、堺南、堺東南の3クラブがありこれで5つになるわけである。この狭い人口たかだか80万足らずの堺にと思ったが後々納得したことだがクラブ拡大を意図していた時期だったのだろう。2月10日創立総会があり10月17日プラザホテル(今は無き)でチャーターナイトが挙行された。初代会長は貝枡忠男氏 五代目会長して私が名を連ねた。なにしろ現役の身分。多忙を極め8年間で退会させてもらった。後々87年1月堺RCへ労災病院の職業分類で副院長と言った立場で再入会せざるを得なくなるのだが。会長としての唯一の業績といえば再三煙草の害についてのべ私は言うまでも無くその他若干の方々が禁煙されたことだろう。今回87年入会後いまだに続いているのは03年3月全て退職した後の寂しさと川柳仲間との交流があるからであろう。
スタッフは宗田の代わりに小田、小田は金城にとローテイト。
この年の3月大阪胆道疾患研究会、膵臓病研究会(共にエーザイ後援)が発足。いまだに続いている。エーザイもご苦労な事だ。各製薬会社競って研究会を立ち上げた時代で医者と製薬会社の癒着が活発だった。医者のよき時代だったともいえる。
2月結婚15周年記念として日南海岸、都井岬へ、 8月には子供夏休みサービスとして賢島ドライブ。ひどい民宿だった記憶しか残っていない。
1973年 毎年7月研修医の交代が慣わしとなっているが例によって鈴木が阪口に。
最後の伊藤家の集いが満地谷で。 8月 家族が山戸氏の招待で家島に海水浴の他、目ぼしいことはなく変化の乏しい何か刺激の欲しい年だった。
1974年 我が家の庭に池が。庭らしく成ってくる。が章の三国丘高校失敗がショックだった。私の教育方針の失敗。男は雑草のごとくというのが私の方針だったが 美沙子等は大いに疑問をもっていた。完全に私の敗北!翌日までショックを引きずっていた。直ぐ英数の家庭教師を依頼する羽目になる。奏まで。
4月からこの年度部長の幹事を仰せつかったのも大きい試練だったといえよう。また4月18日にはNHKで痔に関してのテレビ収録 5月31日全国放映があった。私にとってテレビ出演は初めての事であり緊張のしっ放しでありよい経験にもなった。
7月金城が研修医,大口に変わる際 野納の突然の医局以外の今泉院長の人事で私を悩ませた。又得能が第二、吉田が第三外科部長に院内人事で名称をそうされたが これが各自わだかまりを持ち後日不満をぶちまけるようになるとは気が付かなかった。難しいものだ。人事とは。部長という以上それぞれが平等である。だからみんな三人とも同じ権限を持って当然。というわけである。第一という名称こそないが第一には責任部長という暗に責任が有るんだぞという院長の言葉が一言欲しかった。後々得能は小児外科を、吉田はSeldingerに情熱を注いでもらうことで落ち着いたのであるが。
8月も末家族で貴船から鞍馬 美山荘へと小旅行したことも思い出だ。
1975年 スタッフは小澤,朱が退き井内、野納が新しいメンバーとして加わってくれた。特に野納(岡山大出身)はマンネリになった一外出身者の雰囲気に活を吹き込んでくれた。我々指導者にも。とくに外科医のなかに内視鏡(胃)を取り入れ レントゲン所見と併用する読影を手術に役立てた功績はおおきい。
1976年 奏が3月三国ヶ丘高に合格出来た事。 5月乳癌のNHK全国放送ありこれはおおきい、全国から患者が集まって来る。 7月からRCの会長に就任。 8月12日より約3週間に亘り医療団体としてヨーロッパを夫婦共々観光旅行できたことが大きな収穫だった。羽田を発ちアンカッジからハンブルグへ、コペンハーゲンではチボリを楽しみ、次のオスロでは大学病院、フィヨルド、ストックホルムではカロリンスカ病院、ロンドンではセントトーマス病院、かの有名なロンドン橋など、マドリッドでは闘牛、トレドを、ローマ(廃墟)、バチカン、ボンベイ、ナポリからジュネーブ(レマン湖、WHO)4807mシャモニーモンブランを満喫、パリーではルーブル博物館、リドではかの有名なラインダンスを、東西の壁を持つベルリンでは自由大学病院に訳の分からなかったオペラ、ハンブルグ、アンカレッジ経由羽田着のヨーロッパ一周旅行を楽しんだ。
12月大阪新阪急ホテルで大同礼次郎滋賀医大教授(府立医大先輩)司会による外科卒後教育と研修病院(明日の外科医を考える)にシンポジストとして吉友睦彦(神戸中央市)北川晃(大阪警察病院)伊藤篤(大阪労災病院)の3人が選ばれ臨床外科翌年4月号に掲載された。外科医を志した者の心構えを初歩から諄々と説いた積もりである。
1977年 4月脳外科の独立が特筆大書すべき事柄であろう。曲直部、最上教授はもとより外科の立場からも祝福されてしかるべきエベントだった。従って外科のスタッフは仲原、窪田、中村、が新しく加ってくる。純粋に脳外科のスタッフとしては狩野、大田が切盛りしてくれた。RC関係では地区大会で5月勝浦へ会長として夫婦ともに出かけたのも懐かしい記憶である。
1978年 5月5日わが崇拝せる恩師小澤凱夫先生が亡くなられた。外科医としてあるべき姿を各方面からご指導いただいた尽くせぬ恩義は数限りない。これに関しては第一外関係の同窓会誌に多くの投稿をしてきたがそのなかで留めて置きたいことは”不必要な事をする人は必要な事をしない人である”。含蓄の深い言葉ではないか。医者として外科医として人間として味わうべき大切な事柄である。私はこの言葉を 座右の銘 としている。
1979年 我が家でやっと明るい日差しが差してきた事と言えば章の産業医大への合格である。これに反し父は左半身麻痺で 労災病院から 上ヶ原病院と療養することになるが翌年9月13日帰らぬ人となる。また8月得能辞任も意外な人事であった。
1980年 わが外科スタッフの思いがけぬ移動があった。吉田が厚生年金病院外科部長野納が函館へ。それに呼応して市大一外より西野裕治が。不思議なことに阪大一外よりの補充はなかった。労災院でも今泉院長の辞任(1968~80)。81年4月からは後任として塩田憲三市大一内教授。
1981年 外科スタッフに梁(一外ローテイト)八木(研修兵庫医大)高見、岡村(一外ローテイト)が加わってくれる。大田 近辺で開業(大田クリニック)。 私個人の異変ではあるが後日甲状腺の癌が発見できた頚部腫瘍の摘出をうけた。このころ家では父の遺産についての配分でいろいろ揉めていたようだ。
1982年 私的な事で目ぼしいことがこの年は多かった様だ。まづ結婚25年所謂銀婚式 3月13,14日と京都三条京阪大文字屋に一泊、三十三間堂など京都史跡を散策。9月小辻の恵美子(やよいの長女) 11月には膳啓造(小草の長男)の結婚式、杉原輝男プロの45勝記念祝賀会が日航ホテルで等 そして 美沙子がゴルフ打球をはじめている。我が家にもペットが初めてお目見え ボウbowマルチーズ。 我がスタッフにも変動あり。根津、松村の代わりに桜井が、田中康裕にかわって私の後任となるべき吉川を川島教授から推薦いただいた。 また内科河田肇部長の手術(直腸癌)をさしていただいたのも大きなイベントといえる。 84年3月までの命だったが。
1983年これらスタッフの中 5月南波が国立泉北病院に医長として栄転赴任することなり 馬場雄三,山西博司(阪大57年卒)がニユーフェイスとしてお目見えすることとなる。また 12月には58年卒西村元延(後の鳥取大学教授)が来ている。 藤川の結婚式媒酌、翌年4月吉川(第二)、翌々年4月(第三)韓の部長昇進には特に韓の場合気を使ったが。 8月23~28日美沙子との夏休みを女満別、知床、美幌峠、川湯、阿寒湖、釧路、札幌(支笏湖)の涼しい北海道で過ごしたことは楽しい思い出として残っている。青山夫妻、片岸夫妻とラウンドしたことと共に。
1984年私自身の事で恐縮だが81年頚部腫瘍の術後経過について中尾先生(一外)と充分検討した結果手術を受けることにした。結果甲状腺adenocarcinomaで事なきを得たのだが、外科医なりに吾ながら素早き決断と思った。斐男君教授就任祝賀会 岡村ー生駒結婚媒酌 スタッフでは7月から今分85年1月から赤城治彦が。 美沙子11月に子宮筋腫の手術を貧血の手当て後受けたが。
1985年わが阪神タイガース 掛布,岡田,バースの強力クリーンアップトリオでセリーグ優勝のみならず西武相手に日本シリーズ優勝をなしとげた記念すべき歳でもあった。耐えに耐えてきた苦節の報われたフアンの喜びやいかに。この年の8月12日、日航墜落事故が起きた。犠牲者の中に、阪神球団の社長中埜肇さんがいた。中埜さんはこの前年社長に就いた。現場を頻繁に訪れては選手やスタッフの労をねぎらう、気配りの人だったそうだ。「社長の為にみんなで頑張ろうや」。この言葉で結束力が実り、リーグ優勝、そして悲願の日本一へとつながっていく。頂点を極めたチームと、栄光の瞬間を見ぬまま旅立った社長なんと涙なしに語れぬ物語でないか。祝賀会の連続だったのは言うまでもない。章、奏の国家試験合格、章一外入局、奏泌尿科入局も影に霞んだ。
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1955年~1962年の7年間お世話になった。当初難波病院の名称で遊郭の女性の性病を管理する病院から一般病院にリニュウアルされその名も府立病院と一新、院長も小沢先生に一任、南大阪地域の中核病院として発足した。外科医としてはぺーぺーで一からの出発だった。田辺、雲井両先生に大変お世話になった。若くて独身しかも外科医、当時ケーシーと言う外科医の映画が流行っていた。もてないのが不思議な位である。
外科医としての修行の傍ら私もよき伴侶を見つけねならぬ時期に来ていた。私は小学校から共学の経験が一度も無い。だから女性を見る目が無く私としては最初で最後の見合いなるものを56年1月4日芦屋の畑先生(神戸女学院声学家)宅でした。何故畑先生が間に入って世話をしてくれたのかはよく分からないが。兎に角相手はピアニスト女学院音楽部ピアノ科出身で妹小草の後輩だ。私は美人というよりどちらかといえば可愛い人をと思っていた。
(写真25)

そして私より頭のいい人賢い人と思っていた。ぴったりだ。見合いなんて何回しても同じことだと先輩諸氏に聞かされていたが両親を篤と見てからにしようと思った。どんな家庭に育ったのか親をみれば大体の想像がつく。同じ様な家庭を作ってくれると思ったものだから。 一も無く二も無く賛成。早速畑先生に返事。相手も快諾してくれた。それで結婚するまでの1年間私としては楽しい婚約期間を持った。ついでに当時の私の 写真26も入れておこう。

当時私の周辺の女性と言えばナースしかいない。しかも乙準看護婦が大多数を占め結婚の対象から外れ、若し配偶者に選ぼうものなら教授からは睨まれ教室員からは密かに軽蔑された時代だった。
私たちの婚約時代の娯楽といえば音楽会(ピアノ、バアイオリン、等)洋画(エデンの園、ジャイアント、理由なき反抗などのジェームスヂイーン主演の映画が流行していた)、寄席(相手は度肝を抜かれたらしいが それだけ笑いが欲しかった。いや必要だったのかも知れない)スケートなどで今のように遊びが少なかった。それだけデートそのものが充実していたように思う。この二人の間隙をぬうようかのように6月二人の間を裂くような快事件が起こり頭を悩ました。しかしこのようなことでれるような二人の間ではなかった。
無事翌年57年2月6日宝塚ホテルで結婚式をあげる事が出来た。
(写真27, 28)


ついで7日から10日までの熱海への新婚旅行を楽しむ事になる。伊東、蓮台寺、嵯峨沢温泉から三島経由での始めての旅行だった。何もかも新鮮だった。特に記すものはない。と言うのもその後節目節目10,20年等に二人だけの旅行を楽しんでいたから。10年目の67年には永平寺(雪の中の)へ
新婚家庭は今津沿線仁川、しかも庭のある一軒家(家内の伯父の家を借りた)に僅か1 年余りだったが借りる事が出来た。
(写真29)

同居ではなかったが当時の父母の 写真30も入れてをく。

犬も飼った。ジュリーという 名 だった。(後に学位の実験に使ったが)
まもなく58年5月26日住吉の長居団地へ引越さなくてはならなかった。引っ越して間もなく章3600gが誕生。大きいお腹での引越しも大変だったろう.命名の根拠 あかるくげんきでほがらかに 親として当然の希望である。この時分、兎に角若かった。外科の研修、犬の実験、当直、論文と獅子奮迅の働き 引越してまもなく 9月9日府立病院職員官舎へ移転 翌年59年学位授与 その間小沢院長のお呼びで万国病院(六甲)へ麻酔のアルバイトに行くやら 府スキー連盟からの救護班依で 横手(木戸池写真31)へ出張したり忙しい中にも楽しく若いからこそ出来る医局員生活を送る事が出来た。

60年11月30日には普通自動車免許もとり大胆にも12月には十川ゴムの自動車や某ヤーさんのプリンスで奈良京都、有馬芦屋夙川とドライブもした。趣味でもない鯛の沖釣りに泉南まで出かけたこともあった。
タイガースファンは幼少の頃からだった。だから生粋のファンといえよう。創立昭和10年(1935年)甲子園は西宮にあり、しかも私はつい隣の夙川に住み、干支も寅年、其の上強かった。甲子園まで自転車で一っ走り。こんな条件が揃えばファンになって当たり前。放課後時々見に行ったもんだ。景浦将遊撃手の雄姿(戦死)も瞼に焼き付いている。投手に御園野崇雄、若林忠、内野手に松木謙治郎、伊賀上、藤村富美男、本堂保次等の名が忘れられない。37年秋38年春連続優勝しその強さを印象付けた。しかし戦争激しくなり漸次忘れさられた。特に英語は敵国語として使用禁止 ストライクは真ん中ボールは駄目 しかし英語は授業必須科目である。こんな馬鹿らしいもとでは野球なんか忘れ去られるのも仕様が無かった。そしてこの優れた選手が召集されたり戦死するなど苦難の時代でもあった。1946年再開されたプロ野球いや阪神の人気はかのダイナマイト打線にあり呉昌征、金田正泰、別当薫、藤村富美男、土井垣武、らを主軸とする打線を原動力にして47年優勝を果たす。所謂黄金時代の幕開けであった。 50年セ:パ両リーグに別れ若林、別当、土井垣、呉、本堂らの主力選手が毎日(後のロッテ)へ移籍した。しかし捨てる神あれば拾う神ありで次の土台を作り上げた選手たちもいた。後藤次男田宮謙次郎、渡辺博之ら打撃陣、藤村隆男、梶岡忠義、渡辺省三らの投手陣 それに白坂長栄らがいた。53年は後に主力となった数多くの選手が入団した年である。投手では小山正明、渡辺省三、内野に吉田義男、三宅秀史らだ。特に吉田、三宅の三遊間コンビは不世出の守備陣といわれ、その華麗なフィールヂイングは我々の眼を大いに楽しませてくれた。58年阪神の”顔 ”藤富美男背番号10が引退。阪神初の永久欠番となった。59年関西大学から村山実が入団。小山、村山の二本柱を原動力とし、藤本克己、遠井吾郎、藤井栄治,並木、鎌田実、山本哲也らナインの力により62年二リーグになって初めての優勝、次いで2年後の64年テスト生バッキー、石川の投、山内一弘(小山との一大トレードー毎日と)のホームラン31本、ヒゲ辻こと辻佳紀捕手らの活躍で二度目の優勝を果たした。これには藤本定義監督ー青田コーチの名コンビ振りが加わっている。何故ここにタイガースについての球暦を詳しく述べたかそれには訳がある。55年22勝を挙げ見事新人賞を獲得した西村一孔投手と親交があり、60年12月彼の結婚式に招待されたからである。彼とは時々甲子園で一緒し村山投手、並木等と親しく膝を交えたもあった。
61年2月11日次男奏 3750g誕生 命名の根拠について少し述べておこう。長男章に就いてはただ単に明るく元気で朗らかであって欲しいという意味であったが二人共男とは予想もしてなかったので 古事を調べてみた。章奏という言葉がある。臣民が天子に奉る文書の意である。天子に奉げられるような立派な恥じない記録足跡を残して欲しい伊藤家子々孫々が誇れるような歴史を造って欲しいそういった意味で名付けた積もりだ。期待に応えて欲しい。 それはとも角 生後肥厚性幽門狭窄症 による嘔吐が続き噴水の如き吐物に悩まされた。 だから長男の3600gより遥かに大きかったのに瞬く間に体重も減り心配したもんだ。
(写真32、 33)


この年3月には母の舌潰瘍、6月には糺の十二指腸潰瘍(このときの輸血がもとで肝臓癌になり不幸の転帰をとるが)で手術、何かと気を使う年でもあった。
しかし1月には外科診療主任を、12月にはトヨペットを購入。全てに於いて充実した頃であった。 記憶に残る患者としては 巨大なMilzのう胞(藤野氏) 上海帰りの肝膿瘍(藤安氏)術後管理に大変苦労した。懐かしい。
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尼崎中学校に入学し先ず言葉の洗礼を受けたのが漢文の八田先生からであった。曰く「君達は乳臭い」と。まだまだ子供だと言いたかったのであろう。はやく独立心をもて、はやく母離れしなさい。きっと五十人近い生徒で占めた教室に足を踏み入れた途端乳離れしない母親の乳の匂いが充満していたに違いない。中学2年戦時色濃い頃、紀元二千六百年を記念して掛け軸を橿原神宮に奉納した事があった。習字ではなく書方部門だったが賞をうけたことを思い出す。ここで一句
書き方の賞状昭和十五年

(写真15)
紀元2600年の説明が要るだろう。1940年 昭和15年 がこの年にあたる。明治政府は明治5年「日本書紀」を元に神武天皇即位の年を 国の紀元と定め年号をこれから起算した。「万世一系の現人神が治める神国」この国史観は、1945年の敗戦まで支配的な歴史観となり、戦争遂行のために如何に苦しめられたことか。
退却を転進 全滅を玉砕 敗戦を終戦と何事も実情を言い換え 美化しようとした参謀本部だ。
39年(昭和14年)4月に起こったノモンハン事件もそうであった。ハルハ川の国境を巡って日本ー関東軍(満州駐留の日本軍)ーとモンゴルソ連の両国が正面かぶつかり合った武力衝突であり、日本軍だけでも1万8千人の将兵が 憤死 からでもわかる様にこれは明らかに戦争であった。モンゴル側から見れば「侵略から祖国を守った防衛戦争」と位置づけている。機械されたソ連軍に対し、例によって
日本軍は肉弾で応戦、では勝てる筈が無い。近代化されたソ連軍の兵力を侮り、精神主義一辺倒の理屈に合わぬ作戦を起てた。これで生き残った現場指揮官は「皇軍の名を汚した」事を理由に自決に追い込まれた。そして勇ましい言辞を弄して将兵を死地に追いやった参謀等は何らの責任を取ることなく次に対米英戦争を指導した。その事を非難めいて口走った歴史の金井先生が当時の憲兵にしょっぴかれた事があった。ノモンハン事件は忘れ去られようとしている。しかしこの悲劇の延長が第二次世界大戦であり其の当時の指導者が国を滅ぼした事を忘れてはならない。
それからというもの事訓練に明け暮れ、厳しい銃剣術、体育訓練が續き正規の柔道以外にバスケット部(籠球部)に入らざるを得なくなった。そのときの友が神谷立夫君(故人)橘高薫君(後の川柳塔主幹 故人)東浦正義君(消不明)である。43年1月よくぞ写真を撮っておいたものだと思う。

(写真16)青少年時代のスポーツの醍醐味は思春期の思い通りにならない自分の体や心のコントロールにある。それを武道による日本精神を調することで誤った精神主義に傾いた教育を受けつつあったのだ。それを僅かながら防いでくれたのがバスケットだった。
3年の頃だと記憶しているが道徳の時間だったか 時 とは何かの質問に私は命だと答えたことがあった。今15~17歳の青年が平気で他人の命を奪ってしまう時代、平和ボケに陥っている時代、人がどうにでも使える自分の時間こそが、その人の命そのものであることを自覚してほしい。何の為の人生なのか。一度しかない人生を全うするに当たっての目標を持たねばならない。目標のないこの戦を天皇陛下のためと上官の命一つで若き特攻兵が知覧の基地から二度と帰らぬ飛行に飛び立った学徒のことなど涙なしには語れない。戦時中この命がいかに粗末に扱われたか。沖縄戦の集団自決を巡る問題にしてもそうだ。戦後でも、文部科学省関与のもと、「軍が強制した」という表現は削除され関与と表現せざるを得なかったようだ。修正をのまされた執筆者はさぞ無念だったろう。この時分,憲兵たちによる無言の圧力はすごかった。実際に経験したものでないと分からない。このように徐徐に言論が封殺された時代に生きたつらさは経験したものでないと分からない。32年生まれの美沙子でさえ戦争中のあの苦しみ あの悲惨さがあまり記に残っていないようだ。まるで空気の中の酸素が薄くなっていくような感覚である。こんな酸欠の苦しみのなかにおりながら如何に無理解、無関心であったか、今更ながら横っ面を殴られた思いである。どんなに非人間的な社会であったか。これからの人々には永久に味わって欲しくない。重ねて言う。戦争とは一人一人の人生を剥ぎ取るものだ。反対の平和は、安寧の日常があって始めて享受できる。貴方方は戦争の悲惨さをどれほど知っているか、想像できるか。本当に戦争に反対するのか。その気概はあるのか。今の戦争を知らない子供たちに篤と叩き込まねばなるまい。
学業成績なんていい加減なもんだ。習ったことのおさらいに過ぎない。良い成績をとって当たり前だ。良い成績を取ったからとて威張れるものではないが。中学代の友といえば関原健二君(当時清水高等商船学校)藤原昭君(四修山口高校)渡辺迪君(四修第六高等学校)でみんな四修で高等学校へ行ったものだから更に英語、数学と家庭教師をつけてくれた。(親父の理解によるものだと思う)。だから中学の成績は大体250人中3~29番の中に入っており(1年~5年在籍中)特に英語購読(Ⅱ)は他の全優に比し秀であり当時外交官を夢見た時期もあった。この時期良く出来た者は例えば数学、物理のずば抜けた者は数学者、宇宙物理学者に夫々進んだものだ。医学を選沢するのは特に優れた科目も無く平均的に可もなし不可もない者が選んだようだ。好く言えば平均な人間が医者を選んでいるともいえる。だから現在の様にちょっと変わった人はいなかった。
残された友に東秀信君(当時京都工専)や先述の篭球部の友がいた。当時体育検定(私は中級だったように記憶しているが)もあり戦時中だけに勉学のみでは許されなかった。文字道理、文武両道でなければならなかった。空襲警報下並々ならぬ努力をしたもんだ。受と戦争(現代の受験戦争ではない)に苦しんだ灯下管制下の受験勉強は並大抵のものではなかった。
1945年5月8日ドイツ(ヒットラー)は降伏し日本はただひとり世界を敵として戦い続ける立場となる。その前にイタリー(ムッソリーニー)は早々と三国同盟から脱落していた。敗戦は必至であったが、どう戦争を終えるかは日本の国の未来を大きく左右したであろう。またドイツ降伏から3ヶ月後に、ソ連が対日参戦する、そうヤルタ会談で約束されてもいた。要するに8月が日本にとって重大な時期だったのだ。45年7月26日のポツダム宣言(米英中 後ソ連も参加した対日降伏条約)をひとたびは黙殺した鈴木貫太郎首相であったが 8月6日に原爆が広島に投下され、9日には同じく長崎にも落とされ、ヤルタ会談で予め約束されていたように9にはソ連が対日参戦するに及んで終戦を決意せざるを得ず、そのために天皇による聖断という非常手段を用いる覚悟を固めた。8月14日の事である。我々国民に知らされたのは翌15日であった。
田辺聖子女史の言葉を引用するわけではないが“人間不愉快な事は忘れてしまえ”流にいけば私が苦労した時期は忘れる事にしよう。
写真17

その当時とにかく非国民の誹りは免れないかも知れないが兵役を免れるべく(親父の努力にも感謝したい)懸命だった。一方 未成年のくせに煙草を覚え大人の真似をして得意になってもいた。
日記を書く事が積極的に推奨された世代である。業績を論文に残さねばならなかった習慣をつける良き癖をつけてくれたものと感謝せねばならぬ。飽きやすい人間は三日坊主と嘲られ継続がよしとされた。個人の日記は他人に見せられない。まして思春期になれば秘密が一気に増えるせいで日記を書くところを見られるのも嫌だし隠し場所にも苦労する。けれども隠しようのない貴重な記録は戦争の別の面をわたくしたちに見せてくれる。
京都で勉強したい落ち着いた歴史の町 京都で との最初の願望でもあった京都府立医大予科に入学できた。
(写真18,19,20)



高校、大学予科(旧制).への道は当時エリートとされた。しかし時代の背景もあったのか京都での下宿は許されなかった。夙川から京都までの2時間阪電車で7年間通学した。星を仰ぎ月を見て帰るの生活だった。しかし若かった。毎日が楽しかった。文字道理 青春だった。憧れの京都への日々である。苦にはならなかった。長い通学の時間を利用し読書もし、はたまた初恋も経験した。それは東山の女専に同じように夙川から通学していた泉とか言う女性だった。卒業間際 大学主催の演劇に誘ったらなんと来てくれたのだ。ただそれだけの淡いものだったが。初恋って淡い儚いものとはよくいったものだ。
とにかく旧制に入学でき旧制に卒業できた事に喜び、誇りを持つ。
旧制は名実ともに消え去りぬ
旧制の高校と新制との違いといえば教養にあるのではないか。
戦中戦後派の伝統ある美しい国日本の教育遺産を受け継いだ唯一世代である。この3年間純粋に学問や思想、芸術に沈潜し、文字どうり自由と自治を与えられた教育であった。そして、世を治める志とそして遠大な理想を持つ青年像を描いていた。
戦後はなんでも平等、平等それも秩序ある平等ならともかく無秩序な平等が罷り通る時代だ。だから平気で親がわが子を殺し、子が親を、家族同志いがみ合うどころか殺しあうこんな考えられない悲惨な世の中になってしまった。なにも平等がいけないといっているのではない。堂々と自分の思うところは意見を述べればいい。それが戦後のいいところでもあるがこんな世の中早く変えなくてはならない。教育の改革が叫ばれている所以でもあるのだろう。
予科の生活それは毎日がドイツ語に入り浸りと言ってよかろう。教師3人榎本、臼井、武田)これに対して英語1人(宮田)授業もドイツ語3英語1の割合であった。Der,Des,Dem で一日が明け暮れしたと言っても過言ではない。それが今ではどうだ。ドイツ語に代わって英語の時代だ。何のためにドイツ語に明け暮れしたのだろう。しかも3年間。しかしこれだけは初恋の思い出と共に忘れてはいない。
ゲーテ”若きヴェルテルの悩み”Die Leiden des jungen Werthel のなかの一文
Was ist unserem Herzen die Welt ohne Liebe!
Was eine Zauberlaterne ist ohne Licht!
愛なくして何の人生ぞ それは恰も灯りの無い灯台のようなものだ
また予科の人数が少ない事もあってどこかの運動部に入らざるを得なかった。足の速かったことを買われ又中学で籠球をやってたこともありラグビー部に勧誘され7年間ウイング,はたまたバックセンターとして青春と共に燃える事となった。京都三中のグラウンド、や御所を練習の場とし西日本医大スポーツ大会で時には明石へ行ったり、慈恵医大との対抗戦に時には東京(東征の歌があった)へ行ったりして青春を満喫したもんだ。
(写真21,22,23)



しかし一方予科の成績はといえば3年を通じ129人中13~14番でもあった。
徽章は三高の桜に対して橘の二本線(左近の桜、右近の橘)であった。それはとも角学歌を記しておきたい。
1)比叡は明けたり鴨の水 学城立てり儼として 真理の証神秘扉生命の独火常りて 星の群花地を灼く (朝を意味する。生命の不思議を解明するぞと意気込んでいる)
2)鐘鳴る白昼かうかうと 橘井の健児眉昂る 制覇の業を受け継がん高邁の歌礫石の 巷の風に轟きぬ (白昼を意味する。力の限り研究すると息巻いている)
3)見よ夕暮れの空の月 青蓮の花今咲きて 円かに匂う史の色永久の学府の栄光は 緑の旗の虹の橋 (夕暮の事。気が付くと後世に残る研究もしたと満足している)
4)神と澄むもの雪祭り 医道古賢の教あり 生贄の日の曙に燃ゆる血潮を捧げ来ぬ 仁慈の愛の赫灼と (夜の事。ヒポクラテスの誓いどうり、金儲けのみに走らず、医学の真理の探究に力を尽くした。と歌っている。)
伊良子清白作詞 服部正作曲
大学に進んで親父の商売の失敗もあり満池谷のあの洋風の絵画にもしたい立派な建物も売却せざるを得なくなり将来小草の為にと建てた崖の下の借家にと移らなくてはならなくなった。よって奨学金制度(育英資金)の恩恵を受けなくてはならなくなった。
とにかく大学4年間を無事ごせた。卒業後住友銀行元頭取岡橋林氏の紹介で報酬のある住友病院(当時新大阪病院と言って肥後橋にあった)でインターンが出来る事になった。兎に角暇だった。暇をいいことに声楽(日本楽器で横井輝男に師事この時の声をテープに何故残しておかなかっのか。残念である。記録に何でも残しておく事の重要さを痛感)、ピアノ、スケート冬はスキーと遊びほうけていた。
医学士から学が抜け医師とるとはよく言ったものだ。

写真24はインターンの一齣である。この時の指導の責任者が眼科黒崎医長だった。同じ仲間だった大津(京大)ー外科開業、沖田(大阪医大)ー耳鼻科 後に若松台で開業ー既に故人となったが。
かくして略歴にも記したようにインターン終了後は阪大第一外科にお世話になる事となる。医局ではCクラスで村田当太郎先生から後の岡先生にしごかれる事となる。当時中地階と呼ばれた 患者で副腎の腫瘍(adenoma)に後腹膜空気充盈法を行い見事診断を下した一例があった。外科集談会で久留先生(第二外科教授)に面白いと言われた事を思い出す。だが残念なことにこの貴重な症例をpaperに残していなかった。記録に残しておく重要さがここにもあった。
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