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プロローグ

私が生まれたのは1926年(大正15年10月7日)昭和金融恐慌の頃であり、現在も大不況の真っ只中(2003年平成15年12月=昭和78年)不況に生まれ不況で一生を終える運命にあるのか?だがその間1965年頃バブルの時期もありそれで僅かに代償してくれたのであるが。1931昭和6)には満州事変が勃発、軍事政権の台頭という嫌な兆しもみられたが、その半面「のらくろ」(田河水泡)が少年倶楽部に掲載され長閑な楽しい時代でもあった。のらくろ二等兵から更に伍長、少尉、中尉に昇進するといった軍隊ものだったが。その翌年5月(所謂515事件)に犬養毅首相が暗殺され、19362226事件)には高橋是清大蔵大臣ら数人の重臣が暗殺され、(昭和天皇それを聞かれ思わずグラッと重心 -重臣をなくされたとか)なにかしら不穏な空気が流れていたことを子供心に覚えている。この関西地区にも雪がしんしんと積もるその中 戒厳令が布かれ(戒厳令とはなにかも知らず)なにか異様な雰囲気であったこと、それも小学校5年の頃で学校も休み、ただただ 無心に雪達磨ずくりに打ち興じていたのを鮮明に覚えている。南郷町の自宅で( 写真1 妹、小草と共に)

さて1928年に張作霖爆殺事件が関東軍河本大作参謀の手により行われた。それも上司並びに政府の指示も無く独自の判断に基づき決行したようである。それ自体驚くべきことなのにそれ以上に重大な事は軍部と政府がこの犯行を処罰しなかったことである。そのことが軍人が国のためを思って行う独断専行はおとがめなしとの先例を作ってしまった。軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することが如何に危険であるか。軍部に対するブレーキが利かなくなり以来日本は滅亡の一路をたどる他無かった。シビリアンコントロールが如何に重要かを物語る。民主主義国家にあっては、軍人も国民によって選ばれた政府の判断に従って行動すること自体がシビリアンコントロール(文民統制)なのに。

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37年7月7日北京南西の氷定河に架かる盧溝橋で日本軍と中国国民党軍との武力衝突があり、(真相は未だに不明)それを火の元に支那事変(日中戦争)が始まり、南京陥落を校庭で盛大に餅を撒き祝ったものだった。戦争なんてどこ吹く風だった。戦争になれば日本は必ず勝つ。神風が吹いてくれるものと信じ。そうこうしてるうちに39年第二次世界大戦がはじまり風雲急を告げるにいたった。が一方われわれと言えば双葉山の69連勝ストップ(相手は安芸之海)沸きに沸いていた.この頃が親父の最も裕福な時期で南郷町を去ってからあちこち転々としたが(久出ヶ谷町、末広町)満地谷町に落ち着き一際目を引くモダンな洋式建築の居を構え、やがて数年後40年頃だったと記憶しているが屋上には天体望遠鏡を備え得意絶頂の頃だった) 「ゼイタクは敵」という標語ができた時代でそういった雰囲気のなか41128真珠湾攻撃が始まった。(今年で62年を迎える)思い起こせば悪夢のような大東亜戦争に、二度と来ない青春を奪われ 大事な感性を十派一絡げの一律的な枠に嵌められ自分の個性を発揮できなかった事が残念だ。私だけに言えることではないのだが.そう思えば当時の東条英機首相(戦犯で死刑の判決を受けたが)の責任は重い。戦勝国の裁いた一方的なA級戦犯の判定にはいささか疑問も残るが。そもそも靖国神社は1869明治2)戊辰戦争、日清、日露、日中戦争などの戦没者を追悼する目的、国のために命を捧げた人々の英霊を追悼するためのものではなかったのか!!それがGHQ(連合国軍総司令部)の支配下にあって敗戦後神社の位置づけは大きく変わり靖国神社は「ミリタリーシュライン」とみなされその活動は制限された。合祀者として「国に殉じた」の判断基準がいつのまにか曖昧となりあろうことかA級戦犯14人(絞首刑7人獄死7人)この中には軍人9人民間人5人(広田弘毅、平沼騏一郎元首相、白鳥敏夫伊大使,東郷茂徳、松岡洋右)が含まれている。鹿児島知覧を二度と帰らぬ覚悟で飛び立たざるをえなかった僅か178歳のあの少年達と無謀な戦争を企てた軍人の霊と一緒くたにすべきではないと思うのだが。ともかく一度特攻基地知覧を訪れんことをお薦めしたい。そんなとこわしゃ”チラン”などと言わずに。涙なしには見てをれない。戦死もしていないA級戦犯の民間人5人が合祀されたのには今もって理解に苦しむ。それも78年の事である。親父もかねがね言っていたことだがこんなつまらん戦争なんか始めやがってとは口癖だったが。(後日昭和天皇の日記らしきメモにもー入江相政元侍従長、卜部亮吾元侍従ー靖国神社参拝を中止された理由にそれらしき記載があったようだが。ー富田朝彦元宮内庁長官メモー天皇陛下万歳!!と言って死ねと教育された我々の年代は 陛下の参拝はあって当然と思うが。75年戦後8回目以来天皇参拝なし)大体日清日露の戦争で日本が運良く戦勝したのが軍部を頭に昇らせたそもそもの原因である。どうして軍部を抑圧できなかったのだろうか。

それはとも角 伊藤家のルーツを辿れば当地方(鯖江)の庄屋の家柄であり、柴田勝家が豊臣秀吉当時の羽柴秀吉を討つべく上洛せんとした時(賎ヶ岳の戦)一夜を過ごされた由緒ある家と聴いている庄屋とは今で言えば町長か市長に当たる。お袋の実家は福井羽二重の織物工場(吉川)のお嬢さんだったらしいともかく親父もお袋も福井出身であった。兎にも角にも私を健康に生んで育ててくれた両親に感謝せねばなるまい。頭脳には注文多々あるが。

それはさて置き医者になろうと思ったのは幼き頃余り丈夫でなかった私は人力車で口髭を蓄え往診に来られた先生を見るとホット安心したもんだ。そんな気持ち 安心感を他人に与えられる そんな大人になりたいと思ったのがそもそものきっかけである。

さてうすぼんやりとした記憶をたどって生まれた頃からの成長の後を振り返って見よう。

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