労災病院時代
1962年5月~1966年6月の間労災病院に於ける岡部長下での私の活動について述べる事とする。そもそもこの大阪労災病院は62年当時 馬糞、牛糞だらけの畦道 見渡す限り田畑の長曽根の田舎のど真ん中に、いや言い換えれば田園調豊かなこの町に建った堺市きっての近代的高層ビルであり他を凌ぐこの建物は同時に関西於ける全館冷暖房設備を持つ唯一の公的病院として世の注目を集めもした。驚いたことに廊下は贅沢といっていいほど十分広くとってある。ところがこの立派な廊下に平気で唾を吐く人がいた。唖然とした。およそこの建物に似つかわしくないと思ったのは私一人ではなかったろう。なんと民度の低いところだなァと思った。.私の第一印象である。大和川以南とはこんなところか。夙川に生まれ育った私の偽らざる感想であった。
何はともあれこんな環境下に出来た大阪労災病院も当初は外科、整形外科、内科等診療科目10科で500床の収容能力であり将来必要に応じて数科が追加される事を想定しながらレイアウトされたものだった。
62年4月19日武田教授より直々に電話で転勤命令があり翌20日には労災病院開院式が行われた小沢先生から武田先生に教授がバトンタッチされた直後のこと教授の意に沿わない人事はかくも間際まで放置されたものである。岡先生、鯨岡君、の3人で発足した。鯨岡は小児外科を専門に情熱を燃やし、私は主に外科学会は勿論の事、胸部外科、胸部疾患学会、肺癌学会、癌学会、循環器学会、脈管学会、麻酔学会等幅広い活動を強いられていた。64年には医員も奥、得能、坂本(後の東口)内藤と7人になっていた。私はこの当時特に低体温下開心術に心血を注いでいた。私の学位の仕事にも関連していたし何より小沢先生の強い願望だったから。人工心肺による心臓手術より低体温による心臓の手術の開発を夢見てをられたからだ。私にその夢を託されたのであろう。だから広島市民病院(田口部長)岩手医大(岡村助教授)への見学も許された所謂武者修行である。外科の腕を磨く良い機会でもあった。だからこの時分、低体温下開心術の演題が多かった。曲直部先生の人工心肺に対抗しての低体温による開心術だった。
一方消化器外科に関心のあった私は(消化器外科学会の発足は確か1968年)その盲点でもある膵臓の診断に 有効な方法は無いものかそれが夢でもあった。血管造影からその神秘を探ってみようと思いたった。後になってSeldinger法が一般的となったが膵血管造影法について脈管学会などで発表してきた。その成果があったのか66年4月第66回日本外科学会総会(慶応大)で本庄一夫教授(京大)のシンポジウム”膵癌の早期診断”のシンポジストに選ばれた。(写真34)

シンポジストの鶴見先生は教授に尾崎先生は癌研外科部長に夫々なられた。外科学会のシンポジウムに指名された所為もあってかまた小沢院長の低体温下手術に夢を託されたのか4月27日次期部長の内命を受けた。小沢先生の方針としてあらゆる分野に手を出さないといけなかった。若い医者は早くから固まってしう様では見込みが無い あらゆることに好奇心を持って。それが出来るのは若いうちしかない。と言うわけである。だから整形外科、脳神経外科、泌尿器の分野までなんでもしなくてはならなかった。当直に役立ちその自信を強固なものにしてくれた。一外では武田教授から曲真部教授へと、即ち肺外科から心臓外科へと世代は変わっていく。
62年5月12日雨の中労災病院公舎C-5へ移転した。舗装もされておらず雨が降れば泥んこで歩行にも苦労したもんだ。公舎の向かいには美沙子の親戚でもある放射線科の宮田医師の家族がをり何かと心強かった。家族同士の付き合いが始まる。後々自動車整備士奥井氏らと共に夏の家族旅行も計画された。自動車も63年8月トヨペットがオイルトラブルでセドリックに買い換えた。奥村土木業から譲り受けた車でヘッドライトが縦目のほかは申し分がなかった。64年夏休みを皮切りにドライブがはじまる。この年には関が原ー養老の滝ー下呂温泉ー乗鞍山頂 65年広島厳島神社ー宮島ー関門トンネルー別府温泉ー熊本城ー長崎 66年東尋坊ー金沢ー能登半島ー輪島ー和倉 67年湯原ー大仙ー鳥取砂丘ー皆生温泉 68年池田ー大歩危小歩危ー高知播磨屋橋ー今治ー高松ー徳島 69年恵那ー美ヶ原ー丸池ー白根ー草津ー白樺湖ー諏訪湖ー亀山と冷房の無い若さ故できるドライブを楽しんだ。
二人の子供たちも羽仁素子が主催する幼児生活団にお世話になり子供を中心とした交友の輪が出来た。大田夫妻(画家と生活団主任) 常盤教会牧師牧浦、大阪府大助教授山内、文筆家庄野、速見、婦人科医師森嶋それぞれ夫婦と。
30歳後半にもなると健全な欲望として自分の家(庭付きの)を持ちたくなるものだ。あちこちと物色した。幼い頃夙川にいた頃は麓麓壮を夢見ていたがサラリー月額4万そこそこの給料では到底無理、美沙子の反対を承知で病院近くの泉南地域に土地を求めた。信太山向丘団地,泉丘団地、金剛団地、鈴蘭台など申し込んだが結局一番近くの泉丘に決めた。堺に居を決めるには予想道理強靭な反対もあったが労災病院に近い事を理由に強引に決めざるをえなかった。今だにこの土地には馴染めないでいるようだ。その理由として余り大きな声では言えないが先ほど述べた民度の問題、交通機関の問題、流通の問題等々阪神間夙川との違いが多々あるようだ。
一方目を病院に移せば自動車の主治医でもあった奥井氏の媒酌もした。々になって立場上媒酌を数組したがこれが最初の一組となった。奥井氏が入院の際病室の婦長だった彼女が縁でカップルとなったようである。 また上田安子服飾学院の上田氏自身が入院、受け持ちになり種々お世話をした。山崎豊子の小説”女の勲章”のモデルにもなった人である。
(写真35内科と共観だったので共に写っているのは内科和田温教医師)

この頃から小沢院長の健康状態 思わしく無く入退院を繰り返してをられ。始めはリュウマチの診断だったが後にはSMON病という奇病、四肢の麻痺を主訴とする病名に落ち着いた。当時整腸剤としてよく使われていたキノホルム製剤が原因とされている。
66年は1月に洋子ちゃん10月には斐男氏の結婚式が続いてあり興地家は特にお母さんは大変だったろうと思う半面これでやっと落ち着かれたと安心もした。
66年7月外科部長心得の辞令を戴いた。余りにも若かったからか心得が付いていた。これには小澤先生大変ご立腹の様子だったが。そんな事は十分こころえていた。以下86年5月副院長までの約20年間の苦難でもありそれなりに楽しかったそして人生で最も勉強もした医者としてよき時代の外科部長時代を振り返ってみたい。部長心得の期間は2年間だったように記憶している。それはともかく 曲直部教授のご配慮でスタートは野崎、松山、木村(研修医)を加え得能、吉田、東口の古参の各ドクター計7人であった。俗に7人の侍と後になって振り返って言ったもんだ。 奥副部長は近畿中央病院心臓外科医長へ、鯨岡は大阪小児保健センター外科医長へとそれぞれしかるべき病院へ配置転任された。さあ七人の侍の船出だ。やらねばならぬまたやりたいことが山積している。まず手始めに労災病院というからにはそれらしき仕事をやらねばと白蝋病(振動病)に目をつけ国分砕石所やら奈良五条の森林伐採夫の手指プレチスモグラフィーのデーターをまとめることにした。労働者のそればかりでは色気がない、こればかりでは若いものも興味がなくなるのではないかとゲビート をタイピストまでひろげた。若いふくよかな女性の手指も手がけるようになり仕事も捗った。それで災害医学会にもなんら遠慮することなく全国労災病院のいろんな会合に部長として顔を出せるようになった。
学会としても先に述べた他に臨床外科学会、災害医学会は勿論のこと全日病管理学会、癌治療学会、超音波医学会、内科部長として河田肇先生がお見えになった関係から消化器病学会、肝臓学会にも名前を連ねざるをえず計14の学会費だけでも馬鹿にならず苦労した。
ゴルフを始めたのも42歳の頃だからHDCPは21がいい所,基本が大事とばかり上田梯三プロにつくこと数年、2、3年後には大体50代で回れるようになった。その代わり全国のゴルフ場は荒らしまくった。学会を利用して。わざわざ持ち運びしなくても宅急便と言う便利な運搬業者が出来たのも手助けになった。本職の面でも手当たり次第の勢いだった。今から考えれば無茶な話だが。GGーInj.(ガッセル氏神経節内アルコール注射ー三叉神経痛注射療法小澤先生独特の治療法でそのテクニックを身に付けるべく苦労した) 膵頭十二指腸切除(Child-Op)ボタロー氏管閉鎖術(写真36)手術場にてー産経新聞より取材)

一方大阪基準局では局医として院内外で縦横の働きを欲しいままにした。ところが始めから意にそぐわぬ病院だった小澤先生には面白くなかったのであろう。1967年5月12日唐突に辞任の発表、かねてより意中の香雪記念病院にその本拠を変えられた。
1968年第二代院長として今泉礼治薬理学教授決定 ~1980年までの約12年間基礎医学の学者が臨床病院を君臨されることになるかえって私達臨床家にはやり易い。他の病院へのアルバイト(時間内での)には厳しかったが。当然のことだが。この年には7人の侍に寺下君(第二病理)も加わってくれた。また7月には清島啓次郎君(PL教団健康管理センター所長)も外科の一員として戦力になってくれた。PL教団といへば後々スタッフに加わってくれた中尾照逸君もそうだが二人ともPLという宗教の熱心な信者であり無宗教に近い一般のわれわれとは違った雰囲気を持った純粋な生一本な性格の持ち主でありこちらが真剣に対応すれば真摯な態度でそれに応えてくれる。技術を学びに来たといえ素直な嘉すべき人物だった。
またこの年は関西労災病院にあった看護専門学院を本院に引き取り看護師養成をも依頼されている。91年には第五代校長としてこの看護専門学校を任された位だからこの時分から若い女性の心理を勉強してをくべきだったと後悔している。なにしろ身近にエビデンスとなる筈の若い女性がワンサといるんだから。
(写真38)

またこの年には小澤令夫人の手術をも 香雪会で執刀さしてもらっている。
1969年正月伊藤家(満地谷)で最初の膳、小辻計14人の新年会が行はれている。お袋も60歳をすぎ年に1回とはいえ10人以上の大所帯の切り盛りをするはすこし大変だったかもしれない。あのお嬢さんでは。当外科では研修医木村君が大室君に、それに寺下君、清島君の2名の計9名がスタッフとして加わってくれた。対癌協会から10万円の協力費をいただき9名のスタッフも私を始め消化器外科に大いに力を注ぐ意欲がわいてきたのである。ところが教室の人事は無情なものである。野崎君は他院へと交代に横田,宗田君が研修医として派遣されてきた。頭数さへ揃えばいいのである。 それに脳外科をやるべく研鑽を積んできた松山君、寺下君が開業希望 松山君の代わりに狩野君が和歌山医大岡外科から三島君がうまくしたもんで来てくれ10名で外科を運営することなりこの年は人事で苦労させられた。
反面 目を社会に転づればアポロ11号が月面着陸成功(たしかアームストロング)院内でのトピックとて内科の河田部長、それに泌尿器科岩佐部長の3人会,7月婦人科新設され部長に河田先生(内科部長の弟) X科には森部長決定など嬉しい話もあった.私的には重谷ー伊藤両家の媒酌の目出度い話もあった。
1970年も人事の交流が激しかった。横田が退き小林が、東口、大室の代わりに南波、大田治幸が、研修医として鈴木が、和歌山医大(岡教授)からは三島の代わりに田上が、当院独自の研修医として韓がそれぞれをり計10名の所帯で賄っていた。新旧とりまぜ。2月には結婚13周年として雄琴へ琵琶湖大橋完成を祝し、4月には西館落成式小児科の診療が開始された。8月の例年のドライブは椿ー新宮ー瀞ー那智の滝ー中ノ島ー鬼が城ー潮岬。私事で恐縮だが9月には禁煙している。狭心症の発作に恐怖心をいだきつつ。にも拘らず翌年2回もその発作に苦しんでいる。
1971年の一大イヴェントはなんと言っても8月29日若松台の新居に引っ越したことであろう。山口芳春一級建築士による一世一代の肝いりの設計に私の希望も若干取り入れたものであった。2月に設計が始まり 4月7日地鎮祭 12日着工 5月14日棟上 という工程である。特徴といえばその屋根にある。写真をご覧いただきたい。下の写真(39) がそれでわざわざモデルがやって着て日本板ガラスの宣伝に使ったぐらいだ。

右の写真(40) は増築(美沙子の部屋として)後。

今でも気に入って使っているのが二階座敷の広縁である。この座敷の天井には専門的な素人には分からぬ工夫が施されてある。
外科のスタッフといえば得能、吉田は勿論のこと、狩野、南波、大田、小林、宗田、森、鈴木、三島に代わり田上、韓の定員10名は変わっていない。
この年消化器外科学会の発足があった。
8月の例年のドイヴは伊豆半島石廊崎、修繕時、登呂遺跡、浜松。
1972年で特筆大書すべきは泉北ロータリークラブへ入会勧誘されたことだろう。ロータリーと言えば遥か遠い我々とは無関係な存在との認識だった。しかもこの泉北地区に新しく作るクラブのチャーターメンバーとしてである。その昔大阪北RCのメンバーだった小澤先生の卓話のお手伝いにご一緒したことを思い出した。 堺東ロータリーと共に同時の門出だった。当時堺には堺、堺南、堺東南の3クラブがありこれで5つになるわけである。この狭い人口たかだか80万足らずの堺にと思ったが後々納得したことだがクラブ拡大を意図していた時期だったのだろう。2月10日創立総会があり10月17日プラザホテル(今は無き)でチャーターナイトが挙行された。初代会長は貝枡忠男氏 五代目会長して私が名を連ねた。なにしろ現役の身分。多忙を極め8年間で退会させてもらった。後々87年1月堺RCへ労災病院の職業分類で副院長と言った立場で再入会せざるを得なくなるのだが。会長としての唯一の業績といえば再三煙草の害についてのべ私は言うまでも無くその他若干の方々が禁煙されたことだろう。今回87年入会後いまだに続いているのは03年3月全て退職した後の寂しさと川柳仲間との交流があるからであろう。
スタッフは宗田の代わりに小田、小田は金城にとローテイト。
この年の3月大阪胆道疾患研究会、膵臓病研究会(共にエーザイ後援)が発足。いまだに続いている。エーザイもご苦労な事だ。各製薬会社競って研究会を立ち上げた時代で医者と製薬会社の癒着が活発だった。医者のよき時代だったともいえる。
2月結婚15周年記念として日南海岸、都井岬へ、 8月には子供夏休みサービスとして賢島ドライブ。ひどい民宿だった記憶しか残っていない。
1973年 毎年7月研修医の交代が慣わしとなっているが例によって鈴木が阪口に。
最後の伊藤家の集いが満地谷で。 8月 家族が山戸氏の招待で家島に海水浴の他、目ぼしいことはなく変化の乏しい何か刺激の欲しい年だった。
1974年 我が家の庭に池が。庭らしく成ってくる。が章の三国丘高校失敗がショックだった。私の教育方針の失敗。男は雑草のごとくというのが私の方針だったが 美沙子等は大いに疑問をもっていた。完全に私の敗北!翌日までショックを引きずっていた。直ぐ英数の家庭教師を依頼する羽目になる。奏まで。
4月からこの年度部長の幹事を仰せつかったのも大きい試練だったといえよう。また4月18日にはNHKで痔に関してのテレビ収録 5月31日全国放映があった。私にとってテレビ出演は初めての事であり緊張のしっ放しでありよい経験にもなった。
7月金城が研修医,大口に変わる際 野納の突然の医局以外の今泉院長の人事で私を悩ませた。又得能が第二、吉田が第三外科部長に院内人事で名称をそうされたが これが各自わだかまりを持ち後日不満をぶちまけるようになるとは気が付かなかった。難しいものだ。人事とは。部長という以上それぞれが平等である。だからみんな三人とも同じ権限を持って当然。というわけである。第一という名称こそないが第一には責任部長という暗に責任が有るんだぞという院長の言葉が一言欲しかった。後々得能は小児外科を、吉田はSeldingerに情熱を注いでもらうことで落ち着いたのであるが。
8月も末家族で貴船から鞍馬 美山荘へと小旅行したことも思い出だ。
1975年 スタッフは小澤,朱が退き井内、野納が新しいメンバーとして加わってくれた。特に野納(岡山大出身)はマンネリになった一外出身者の雰囲気に活を吹き込んでくれた。我々指導者にも。とくに外科医のなかに内視鏡(胃)を取り入れ レントゲン所見と併用する読影を手術に役立てた功績はおおきい。
1976年 奏が3月三国ヶ丘高に合格出来た事。 5月乳癌のNHK全国放送ありこれはおおきい、全国から患者が集まって来る。 7月からRCの会長に就任。 8月12日より約3週間に亘り医療団体としてヨーロッパを夫婦共々観光旅行できたことが大きな収穫だった。羽田を発ちアンカッジからハンブルグへ、コペンハーゲンではチボリを楽しみ、次のオスロでは大学病院、フィヨルド、ストックホルムではカロリンスカ病院、ロンドンではセントトーマス病院、かの有名なロンドン橋など、マドリッドでは闘牛、トレドを、ローマ(廃墟)、バチカン、ボンベイ、ナポリからジュネーブ(レマン湖、WHO)4807mシャモニーモンブランを満喫、パリーではルーブル博物館、リドではかの有名なラインダンスを、東西の壁を持つベルリンでは自由大学病院に訳の分からなかったオペラ、ハンブルグ、アンカレッジ経由羽田着のヨーロッパ一周旅行を楽しんだ。
12月大阪新阪急ホテルで大同礼次郎滋賀医大教授(府立医大先輩)司会による外科卒後教育と研修病院(明日の外科医を考える)にシンポジストとして吉友睦彦(神戸中央市)北川晃(大阪警察病院)伊藤篤(大阪労災病院)の3人が選ばれ臨床外科翌年4月号に掲載された。外科医を志した者の心構えを初歩から諄々と説いた積もりである。
1977年 4月脳外科の独立が特筆大書すべき事柄であろう。曲直部、最上教授はもとより外科の立場からも祝福されてしかるべきエベントだった。従って外科のスタッフは仲原、窪田、中村、が新しく加ってくる。純粋に脳外科のスタッフとしては狩野、大田が切盛りしてくれた。RC関係では地区大会で5月勝浦へ会長として夫婦ともに出かけたのも懐かしい記憶である。
1978年 5月5日わが崇拝せる恩師小澤凱夫先生が亡くなられた。外科医としてあるべき姿を各方面からご指導いただいた尽くせぬ恩義は数限りない。これに関しては第一外関係の同窓会誌に多くの投稿をしてきたがそのなかで留めて置きたいことは”不必要な事をする人は必要な事をしない人である”。含蓄の深い言葉ではないか。医者として外科医として人間として味わうべき大切な事柄である。私はこの言葉を 座右の銘 としている。
1979年 我が家でやっと明るい日差しが差してきた事と言えば章の産業医大への合格である。これに反し父は左半身麻痺で 労災病院から 上ヶ原病院と療養することになるが翌年9月13日帰らぬ人となる。また8月得能辞任も意外な人事であった。
1980年 わが外科スタッフの思いがけぬ移動があった。吉田が厚生年金病院外科部長野納が函館へ。それに呼応して市大一外より西野裕治が。不思議なことに阪大一外よりの補充はなかった。労災院でも今泉院長の辞任(1968~80)。81年4月からは後任として塩田憲三市大一内教授。
1981年 外科スタッフに梁(一外ローテイト)八木(研修兵庫医大)高見、岡村(一外ローテイト)が加わってくれる。大田 近辺で開業(大田クリニック)。 私個人の異変ではあるが後日甲状腺の癌が発見できた頚部腫瘍の摘出をうけた。このころ家では父の遺産についての配分でいろいろ揉めていたようだ。
1982年 私的な事で目ぼしいことがこの年は多かった様だ。まづ結婚25年所謂銀婚式 3月13,14日と京都三条京阪大文字屋に一泊、三十三間堂など京都史跡を散策。9月小辻の恵美子(やよいの長女) 11月には膳啓造(小草の長男)の結婚式、杉原輝男プロの45勝記念祝賀会が日航ホテルで等 そして 美沙子がゴルフ打球をはじめている。我が家にもペットが初めてお目見え ボウbowマルチーズ。 我がスタッフにも変動あり。根津、松村の代わりに桜井が、田中康裕にかわって私の後任となるべき吉川を川島教授から推薦いただいた。 また内科河田肇部長の手術(直腸癌)をさしていただいたのも大きなイベントといえる。 84年3月までの命だったが。
1983年これらスタッフの中 5月南波が国立泉北病院に医長として栄転赴任することなり 馬場雄三,山西博司(阪大57年卒)がニユーフェイスとしてお目見えすることとなる。また 12月には58年卒西村元延(後の鳥取大学教授)が来ている。 藤川の結婚式媒酌、翌年4月吉川(第二)、翌々年4月(第三)韓の部長昇進には特に韓の場合気を使ったが。 8月23~28日美沙子との夏休みを女満別、知床、美幌峠、川湯、阿寒湖、釧路、札幌(支笏湖)の涼しい北海道で過ごしたことは楽しい思い出として残っている。青山夫妻、片岸夫妻とラウンドしたことと共に。
1984年私自身の事で恐縮だが81年頚部腫瘍の術後経過について中尾先生(一外)と充分検討した結果手術を受けることにした。結果甲状腺adenocarcinomaで事なきを得たのだが、外科医なりに吾ながら素早き決断と思った。斐男君教授就任祝賀会 岡村ー生駒結婚媒酌 スタッフでは7月から今分85年1月から赤城治彦が。 美沙子11月に子宮筋腫の手術を貧血の手当て後受けたが。
1985年わが阪神タイガース 掛布,岡田,バースの強力クリーンアップトリオでセリーグ優勝のみならず西武相手に日本シリーズ優勝をなしとげた記念すべき歳でもあった。耐えに耐えてきた苦節の報われたフアンの喜びやいかに。この年の8月12日、日航墜落事故が起きた。犠牲者の中に、阪神球団の社長中埜肇さんがいた。中埜さんはこの前年社長に就いた。現場を頻繁に訪れては選手やスタッフの労をねぎらう、気配りの人だったそうだ。「社長の為にみんなで頑張ろうや」。この言葉で結束力が実り、リーグ優勝、そして悲願の日本一へとつながっていく。頂点を極めたチームと、栄光の瞬間を見ぬまま旅立った社長なんと涙なしに語れぬ物語でないか。祝賀会の連続だったのは言うまでもない。章、奏の国家試験合格、章一外入局、奏泌尿科入局も影に霞んだ。
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