府立病院時代

1955年~1962年の7年間お世話になった。当初難波病院の名称で遊郭の女性の性病を管理する病院から一般病院にリニュウアルされその名も府立病院と一新、院長も小沢先生に一任、南大阪地域の中核病院として発足した。外科医としてはぺーぺーで一からの出発だった。田辺、雲井両先生に大変お世話になった。若くて独身しかも外科医、当時ケーシーと言う外科医の映画が流行っていた。もてないのが不思議な位である。

外科医としての修行の傍ら私もよき伴侶を見つけねならぬ時期に来ていた。私は小学校から共学の経験が一度も無い。だから女性を見る目が無く私としては最初で最後の見合いなるものを56年1月4日芦屋の畑先生(神戸女学院声学家)宅でした。何故畑先生が間に入って世話をしてくれたのかはよく分からないが。兎に角相手はピアニスト女学院音楽部ピアノ科出身で妹小草の後輩だ。私は美人というよりどちらかといえば可愛い人をと思っていた。
(写真25)

写真25

そして私より頭のいい人賢い人と思っていた。ぴったりだ。見合いなんて何回しても同じことだと先輩諸氏に聞かされていたが両親を篤と見てからにしようと思った。どんな家庭に育ったのか親をみれば大体の想像がつく。同じ様な家庭を作ってくれると思ったものだから。 一も無く二も無く賛成。早速畑先生に返事。相手も快諾してくれた。それで結婚するまでの1年間私としては楽しい婚約期間を持った。ついでに当時の私の 写真26も入れておこう。

当時私の周辺の女性と言えばナースしかいない。しかも乙準看護婦が大多数を占め結婚の対象から外れ、若し配偶者に選ぼうものなら教授からは睨まれ教室員からは密かに軽蔑された時代だった。

私たちの婚約時代の娯楽といえば音楽会(ピアノ、バアイオリン、等)洋画(エデンの園、ジャイアント、理由なき反抗などのジェームスヂイーン主演の映画が流行していた)、寄席(相手は度肝を抜かれたらしいが  それだけ笑いが欲しかった。いや必要だったのかも知れない)スケートなどで今のように遊びが少なかった。それだけデートそのものが充実していたように思う。この二人の間隙をぬうようかのように6月二人の間を裂くような快事件が起こり頭を悩ました。しかしこのようなことでれるような二人の間ではなかった。

無事翌年57年2月6日宝塚ホテルで結婚式をあげる事が出来た。
(写真27, 28)

写真28

ついで7日から10日までの熱海への新婚旅行を楽しむ事になる。伊東、蓮台寺、嵯峨沢温泉から三島経由での始めての旅行だった。何もかも新鮮だった。特に記すものはない。と言うのもその後節目節目10,20年等に二人だけの旅行を楽しんでいたから。10年目の67年には永平寺(雪の中の)へ

新婚家庭は今津沿線仁川、しかも庭のある一軒家(家内の伯父の家を借りた)に僅か1 年余りだったが借りる事が出来た。
(写真29)

同居ではなかったが当時の父母の 写真30も入れてをく。

写真30

犬も飼った。ジュリーという 名 だった。(後に学位の実験に使ったが)

まもなく58年5月26日住吉の長居団地へ引越さなくてはならなかった。引っ越して間もなく章3600gが誕生。大きいお腹での引越しも大変だったろう.命名の根拠 あかるくげんきでほがらかに 親として当然の希望である。この時分、兎に角若かった。外科の研修、犬の実験、当直、論文と獅子奮迅の働き 引越してまもなく 9月9日府立病院職員官舎へ移転 翌年59年学位授与 その間小沢院長のお呼びで万国病院(六甲)へ麻酔のアルバイトに行くやら 府スキー連盟からの救護班依で  横手(木戸池写真31)へ出張したり忙しい中にも楽しく若いからこそ出来る医局員生活を送る事が出来た。

写真31

60年11月30日には普通自動車免許もとり大胆にも12月には十川ゴムの自動車や某ヤーさんのプリンスで奈良京都、有馬芦屋夙川とドライブもした。趣味でもない鯛の沖釣りに泉南まで出かけたこともあった。

タイガースファンは幼少の頃からだった。だから生粋のファンといえよう。創立昭和10年(1935年)甲子園は西宮にあり、しかも私はつい隣の夙川に住み、干支も寅年、其の上強かった。甲子園まで自転車で一っ走り。こんな条件が揃えばファンになって当たり前。放課後時々見に行ったもんだ。景浦将遊撃手の雄姿(戦死)も瞼に焼き付いている。投手に御園野崇雄、若林忠、内野手に松木謙治郎、伊賀上、藤村富美男、本堂保次等の名が忘れられない。37年秋38年春連続優勝しその強さを印象付けた。しかし戦争激しくなり漸次忘れさられた。特に英語は敵国語として使用禁止 ストライクは真ん中ボールは駄目 しかし英語は授業必須科目である。こんな馬鹿らしいもとでは野球なんか忘れ去られるのも仕様が無かった。そしてこの優れた選手が召集されたり戦死するなど苦難の時代でもあった。1946年再開されたプロ野球いや阪神の人気はかのダイナマイト打線にあり呉昌征、金田正泰、別当薫、藤村富美男、土井垣武、らを主軸とする打線を原動力にして47年優勝を果たす。所謂黄金時代の幕開けであった。 50年セ:パ両リーグに別れ若林、別当、土井垣、呉、本堂らの主力選手が毎日(後のロッテ)へ移籍した。しかし捨てる神あれば拾う神ありで次の土台を作り上げた選手たちもいた。後藤次男田宮謙次郎、渡辺博之ら打撃陣、藤村隆男、梶岡忠義、渡辺省三らの投手陣 それに白坂長栄らがいた。53年は後に主力となった数多くの選手が入団した年である。投手では小山正明、渡辺省三、内野に吉田義男、三宅秀史らだ。特に吉田、三宅の三遊間コンビは不世出の守備陣といわれ、その華麗なフィールヂイングは我々の眼を大いに楽しませてくれた。58年阪神の”顔 ”藤富美男背番号10が引退。阪神初の永久欠番となった。59年関西大学から村山実が入団。小山、村山の二本柱を原動力とし、藤本克己、遠井吾郎、藤井栄治,並木、鎌田実、山本哲也らナインの力により62年二リーグになって初めての優勝、次いで2年後の64年テスト生バッキー、石川の投、山内一弘(小山との一大トレードー毎日と)のホームラン31本、ヒゲ辻こと辻佳紀捕手らの活躍で二度目の優勝を果たした。これには藤本定義監督ー青田コーチの名コンビ振りが加わっている。何故ここにタイガースについての球暦を詳しく述べたかそれには訳がある。55年22勝を挙げ見事新人賞を獲得した西村一孔投手と親交があり、60年12月彼の結婚式に招待されたからである。彼とは時々甲子園で一緒し村山投手、並木等と親しく膝を交えたもあった。

61年2月11日次男奏 3750g誕生 命名の根拠について少し述べておこう。長男章に就いてはただ単に明るく元気で朗らかであって欲しいという意味であったが二人共男とは予想もしてなかったので 古事を調べてみた。章奏という言葉がある。臣民が天子に奉る文書の意である。天子に奉げられるような立派な恥じない記録足跡を残して欲しい伊藤家子々孫々が誇れるような歴史を造って欲しいそういった意味で名付けた積もりだ。期待に応えて欲しい。 それはとも角 生後肥厚性幽門狭窄症 による嘔吐が続き噴水の如き吐物に悩まされた。 だから長男の3600gより遥かに大きかったのに瞬く間に体重も減り心配したもんだ。
(写真32、 33)

この年3月には母の舌潰瘍、6月には糺の十二指腸潰瘍(このときの輸血がもとで肝臓癌になり不幸の転帰をとるが)で手術、何かと気を使う年でもあった。

しかし1月には外科診療主任を、12月にはトヨペットを購入。全てに於いて充実した頃であった。   記憶に残る患者としては 巨大なMilzのう胞(藤野氏) 上海帰りの肝膿瘍(藤安氏)術後管理に大変苦労した。懐かしい。

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