夙川満池谷町

尼崎中学校に入学し先ず言葉の洗礼を受けたのが漢文の八田先生からであった。曰く「君達は乳臭い」と。まだまだ子供だと言いたかったのであろう。はやく独立心をもて、はやく母離れしなさい。きっと五十人近い生徒で占めた教室に足を踏み入れた途端乳離れしない母親の乳の匂いが充満していたに違いない。中学2年戦時色濃い頃、紀元二千六百年を記念して掛け軸を橿原神宮に奉納した事があった。習字ではなく書方部門だったが賞をうけたことを思い出す。ここで一句

       書き方の賞状昭和十五年

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紀元2600年の説明が要るだろう。1940年 昭和15年 がこの年にあたる。明治政府は明治5年「日本書紀」を元に神武天皇即位の年を 国の紀元と定め年号をこれから起算した。「万世一系の現人神が治める神国」この国史観は、1945年の敗戦まで支配的な歴史観となり、戦争遂行のために如何に苦しめられたことか。

退却を転進 全滅を玉砕 敗戦を終戦と何事も実情を言い換え 美化しようとした参謀本部だ。

39年(昭和14年)4月に起こったノモンハン事件もそうであった。ハルハ川の国境を巡って日本ー関東軍(満州駐留の日本軍)ーとモンゴルソ連の両国が正面かぶつかり合った武力衝突であり、日本軍だけでも1万8千人の将兵が 憤死 からでもわかる様にこれは明らかに戦争であった。モンゴル側から見れば「侵略から祖国を守った防衛戦争」と位置づけている。機械されたソ連軍に対し、例によって

日本軍は肉弾で応戦、では勝てる筈が無い。近代化されたソ連軍の兵力を侮り、精神主義一辺倒の理屈に合わぬ作戦を起てた。これで生き残った現場指揮官は「皇軍の名を汚した」事を理由に自決に追い込まれた。そして勇ましい言辞を弄して将兵を死地に追いやった参謀等は何らの責任を取ることなく次に対米英戦争を指導した。その事を非難めいて口走った歴史の金井先生が当時の憲兵にしょっぴかれた事があった。ノモンハン事件は忘れ去られようとしている。しかしこの悲劇の延長が第二次世界大戦であり其の当時の指導者が国を滅ぼした事を忘れてはならない。

れからというもの事訓練に明け暮れ、厳しい銃剣術、体育訓練が續き正規の柔道以外にバスケット部(籠球部)に入らざるを得なくなった。そのときの友が神谷立夫君(故人)橘高薫君(後の川柳塔主幹 故人)東浦正義君(消不明)である。431よくぞ写真を撮っておいたものだと思う。

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(写真16)青少年時代のスポーツの醍醐味は思春期の思い通りにならない自分の体や心のコントロールにある。それを武道による日本精神を調することで誤った精神主義に傾いた教育を受けつつあったのだ。それを僅かながら防いでくれたのがバスケットだった。

3年の頃だと記憶しているが道徳の時間だったか 時  とは何かの質問に私は命だと答えたことがあった。今15~17歳の青年が平気で他人の命を奪ってしまう時代、平和ボケに陥っている時代、人がどうにでも使える自分の時間こそが、その人の命そのものであることを自覚してほしい。何の為の人生なのか。一度しかない人生を全うするに当たっての目標を持たねばならない。目標のないこの戦を天皇陛下のためと上官の命一つで若き特攻兵が知覧の基地から二度と帰らぬ飛行に飛び立った学徒のことなど涙なしには語れない。戦時中この命がいかに粗末に扱われたか。沖縄戦の集団自決を巡る問題にしてもそうだ。戦後でも、文部科学省関与のもと、「軍が強制した」という表現は削除され関与と表現せざるを得なかったようだ。修正をのまされた執筆者はさぞ無念だったろう。この時分,憲兵たちによる無言の圧力はすごかった。実際に経験したものでないと分からない。このように徐徐に言論が封殺された時代に生きたつらさは経験したものでないと分からない。32年生まれの美沙子でさえ戦争中のあの苦しみ あの悲惨さがあまり記に残っていないようだ。まるで空気の中の酸素が薄くなっていくような感覚である。こんな酸欠の苦しみのなかにおりながら如何に無理解、無関心であったか、今更ながら横っ面を殴られた思いである。どんなに非人間的な社会であったか。これからの人々には永久に味わって欲しくない。重ねて言う。戦争とは一人一人の人生を剥ぎ取るものだ。反対の平和は、安寧の日常があって始めて享受できる。貴方方は戦争の悲惨さをどれほど知っているか、想像できるか。本当に戦争に反対するのか。その気概はあるのか。今の戦争を知らない子供たちに篤と叩き込まねばなるまい。

学業成績なんていい加減なもんだ。習ったことのおさらいに過ぎない。良い成績をとって当たり前だ。良い成績を取ったからとて威張れるものではないが。中学代の友といえば関原健二君(当時清水高等商船学校)藤原昭君(四修山口高校)渡辺迪君(四修第六高等学校)でみんな四修で高等学校へ行ったものだから更に英語、数学と家庭教師をつけてくれた。(親父の理解によるものだと思う)。だから中学の成績は大体250人中3~29番の中に入っており(1年~5年在籍中)特に英語購読(Ⅱ)は他の全優に比し秀であり当時外交官を夢見た時期もあった。この時期良く出来た者は例えば数学、物理のずば抜けた者は数学者、宇宙物理学者に夫々進んだものだ。医学を選沢するのは特に優れた科目も無く平均的に可もなし不可もない者が選んだようだ。好く言えば平均な人間が医者を選んでいるともいえる。だから現在の様にちょっと変わった人はいなかった。

残された友に東秀信君(当時京都工専)や先述の篭球部の友がいた。当時体育検定(私は中級だったように記憶しているが)もあり戦時中だけに勉学のみでは許されなかった。文字道理、文武両道でなければならなかった。空襲警報下並々ならぬ努力をしたもんだ。受と戦争(現代の受験戦争ではない)に苦しんだ灯下管制下の受験勉強は並大抵のものではなかった。

1945年5月8日ドイツ(ヒットラー)は降伏し日本はただひとり世界を敵として戦い続ける立場となる。その前にイタリー(ムッソリーニー)は早々と三国同盟から脱落していた。敗戦は必至であったが、どう戦争を終えるかは日本の国の未来を大きく左右したであろう。またドイツ降伏から3ヶ月後に、ソ連が対日参戦する、そうヤルタ会談で約束されてもいた。要するに8月が日本にとって重大な時期だったのだ。45年7月26日のポツダム宣言(米英中 後ソ連も参加した対日降伏条約)をひとたびは黙殺した鈴木貫太郎首相であったが 8月6日に原爆が広島に投下され、9日には同じく長崎にも落とされ、ヤルタ会談で予め約束されていたように9にはソ連が対日参戦するに及んで終戦を決意せざるを得ず、そのために天皇による聖断という非常手段を用いる覚悟を固めた。8月14日の事である。我々国民に知らされたのは翌15日であった。

田辺聖子女史の言葉を引用するわけではないが“人間不愉快な事は忘れてしまえ”流にいけば私が苦労した時期は忘れる事にしよう。
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その当時とにかく非国民の誹りは免れないかも知れないが兵役を免れるべく(親父の努力にも感謝したい)懸命だった。一方 未成年のくせに煙草を覚え大人の真似をして得意になってもいた。

日記を書く事が積極的に推奨された世代である。業績を論文に残さねばならなかった習慣をつける良き癖をつけてくれたものと感謝せねばならぬ。飽きやすい人間は三日坊主と嘲られ継続がよしとされた。個人の日記は他人に見せられない。まして思春期になれば秘密が一気に増えるせいで日記を書くところを見られるのも嫌だし隠し場所にも苦労する。けれども隠しようのない貴重な記録は戦争の別の面をわたくしたちに見せてくれる。

都で勉強したい落ち着いた歴史の町 京都で との最初の願望でもあった京都府立医大予科に入学できた。
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高校、大学予科
(旧制).への道は当時エリートとされた。しかし時代の背景もあったのか京都での下宿は許されなかった。夙川から京都までの2時間阪電車で7年間通学した。星を仰ぎ月を見て帰るの生活だった。しかし若かった。毎日が楽しかった。文字道理 青春だった。憧れの京都への日々である。苦にはならなかった。長い通学の時間を利用し読書もし、はたまた初恋も経験した。それは東山の女専に同じように夙川から通学していた泉とか言う女性だった。卒業間際 大学主催の演劇に誘ったらなんと来てくれたのだ。ただそれだけの淡いものだったが。初恋って淡い儚いものとはよくいったものだ。

とにかく旧制に入学でき旧制に卒業できた事に喜び、誇りを持つ。

     旧制は名実ともに消え去りぬ

旧制の高校と新制との違いといえば教養にあるのではないか。

戦中戦後派の伝統ある美しい国日本の教育遺産を受け継いだ唯一世代である。この3年間純粋に学問や思想、芸術に沈潜し、文字どうり自由と自治を与えられた教育であった。そして、世を治める志とそして遠大な理想を持つ青年像を描いていた。

戦後はなんでも平等、平等それも秩序ある平等ならともかく無秩序な平等が罷り通る時代だ。だから平気で親がわが子を殺し、子が親を、家族同志いがみ合うどころか殺しあうこんな考えられない悲惨な世の中になってしまった。なにも平等がいけないといっているのではない。堂々と自分の思うところは意見を述べればいい。それが戦後のいいところでもあるがこんな世の中早く変えなくてはならない。教育の改革が叫ばれている所以でもあるのだろう。

予科の生活それは毎日がドイツ語に入り浸りと言ってよかろう。教師3人榎本、臼井、武田)これに対して英語1人(宮田)授業もドイツ語3英語1の割合であった。Der,Des,Dem で一日が明け暮れしたと言っても過言ではない。それが今ではどうだ。ドイツ語に代わって英語の時代だ。何のためにドイツ語に明け暮れしたのだろう。しかも3年間。しかしこれだけは初恋の思い出と共に忘れてはいない。

ーテ”若きヴェルテルの悩み”Die Leiden des jungen Werthel のなかの一文

 Was ist unserem Herzen die Welt ohne Liebe!

 Was eine Zauberlaterne ist ohne Licht!

 愛なくして何の人生ぞ それは恰も灯りの無い灯台のようなものだ

また予科の人数が少ない事もあってどこかの運動部に入らざるを得なかった。足の速かったことを買われ又中学で籠球をやってたこともありラグビー部に勧誘され7年間ウイング,はたまたバックセンターとして青春と共に燃える事となった。京都三中のグラウンド、や御所を練習の場とし西日本医大スポーツ大会で時には明石へ行ったり、慈恵医大との対抗戦に時には東京(東征の歌があった)へ行ったりして青春を満喫したもんだ。
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しかし一方予科の成績はといえば3年を通じ129人中13~14番でもあった。

徽章は三高の桜に対して橘の二本線(左近の桜、右近の橘)であった。それはとも角学歌を記しておきたい。

1)比叡は明けたり鴨の水   学城立てり儼として   真理の証神秘扉生命の独火常りて  星の群花地を灼く (朝を意味する。生命の不思議を解明するぞと意気込んでいる)

2)鐘鳴る白昼かうかうと  橘井の健児眉昂る  制覇の業を受け継がん高邁の歌礫石の  巷の風に轟きぬ  (白昼を意味する。力の限り研究すると息巻いている)

3)見よ夕暮れの空の月    青蓮の花今咲きて   円かに匂う史の色永久の学府の栄光は   緑の旗の虹の橋  (夕暮の事。気が付くと後世に残る研究もしたと満足している)

4)神と澄むもの雪祭り    医道古賢の教あり     生贄の日の曙に燃ゆる血潮を捧げ来ぬ  仁慈の愛の赫灼と  (夜の事。ヒポクラテスの誓いどうり、金儲けのみに走らず、医学の真理の探究に力を尽くした。と歌っている。)

                       伊良子清白作詞 服部正作曲 

大学に進んで親父の商売の失敗もあり満池谷のあの洋風の絵画にもしたい立派な建物も売却せざるを得なくなり将来小草の為にと建てた崖の下の借家にと移らなくてはならなくなった。よって奨学金制度(育英資金)の恩恵を受けなくてはならなくなった。

とにかく大学4年間を無事ごせた。卒業後住友銀行元頭取岡橋林氏の紹介で報酬のある住友病院(当時新大阪病院と言って肥後橋にあった)でインターンが出来る事になった。兎に角暇だった。暇をいいことに声楽(日本楽器で横井輝男に師事この時の声をテープに何故残しておかなかっのか。残念である。記録に何でも残しておく事の重要さを痛感)、ピアノ、スケート冬はスキーと遊びほうけていた。

医学士から学が抜け医師とるとはよく言ったものだ。

写真24

写真24はインターンの一齣である。この時の指導の責任者が眼科黒崎医長だった。同じ仲間だった大津(京大)ー外科開業、沖田(大阪医大)ー耳鼻科 後に若松台で開業ー既に故人となったが。

かくして略歴にも記したようにインターン終了後は阪大第一外科にお世話になる事となる。医局ではCクラスで村田当太郎先生から後の岡先生にしごかれる事となる。当時中地階と呼ばれた 患者で副腎の腫瘍(adenoma)に後腹膜空気充盈法を行い見事診断を下した一例があった。外科集談会で久留先生(第二外科教授)に面白いと言われた事を思い出す。だが残念なことにこの貴重な症例をpaperに残していなかった。記録に残しておく重要さがここにもあった。

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