夙川南郷町
私の生まれたところは西宮千歳町 阪急神戸線夙川駅東南の一角(今は立派な住宅地)とある薄暗い長屋の一軒家だったが全く記憶がない。だからこの写真2枚で責めを果たしたい。

(写真2 祖母はるに抱かれて)

( 写真3 一緒にいるのは近所の女の子)

さらに清水町 (写真4 妹小草と)へと住居を変えるが この時期は親父夫婦が揉めていた時代で、別に面倒を見なくても良かった祖母(はる)と同居(親父は三男だった)が原因で母は度々福井の実家にもどっていたようだ。この時分福井だったと記憶している、雪の降る自動車の中、何故か親父と二人だけだったが、涙をハンカチで拭っていたのを今も鮮明に覚えている。涙を流さねばならなかった理由は分からないが。子供三人もつくって夫婦仲が悪かった訳でもないのに。

(写真5次女やよい 南郷町にて)親父は当時いわるハイカラだったようで、お袋の兄と上手くいってなく、それも一つの原因でなかったかと勝手な推測をしている。それはともかく、当時満州から(父は大阪商業学校卒業後満鉄に就職)帰日し来阪生涯の住居として夙川に目を着けた慧眼は流石だと思う。その後、南郷町へ移り2.26事件を味わうわけだが(小学校4年写真1、5)。

軍国主義やかなりしこの頃「 肉弾三勇士」の美談が世に騒がれていた。32年上海事変での国民的英雄の話である。三勇士を讃える歌もあった位だ。ほんとのことは「三人破壊筒の導火線に火をつけ走って行って鉄条網に突っ込み,素早く帰ってくる予定だった様だ。ところが途中で躓いたか弾丸に当たったかで一人が倒れ時間をとってしまった為、三人は逃げ帰りかけた。すると伍長が天皇のためだ!国のためだ行けと怒鳴りつけたのでまた引き返した。破壊筒を抱えて鉄条網に着いたか着かぬかに爆発したそうだ。命令に背くと銃殺されるのが普通だった時代同じ死ぬならと思って進んだのだろう。なんと非人間的な話ではないか。
歌と言えば記憶に残っているのは日露戦争の時だったか広瀬中佐が旅順港閉鎖の折沈み行く船で部下の杉野兵曹長を「杉野はいづや杉野はいづこ」と悲壮な叫び声を上げ捜し求めた歌を思い出す。同じ軍国時代でも1903年頃の明治と、32年頃の昭和の時代でかくも異なってくるのか、部下への思いやりの相違が如実に伺える。それはとも角、南郷町は住友系のお偉方の住宅地でもありこの家も半永久的に住む積もりで建てただけに庭も池もあり立派なものだった。その家も何故か僅か数年で売り渡し久出ヶ谷町、末広町と転々とし小学校6年の頃やっと満池谷町に落ち着きここで青春時代まで過ごす事となる。
小学校時代(小学校1年生34年4月入学当時 写真6 小学校2年生 写真7)を思い出してみよう。


私の小学校安井は名門校であり後々の大阪労災病院院長阿部裕先生も井小学校の先輩であり数多くの高名な先輩達が輩出している。その当時この地域には大社小学校と二つしかなかったが自分が中等教育しか受けられなかったせいか教育に熱心な父は安井校を選んでくれた。1年から3年まで松本仁一先生、4年から6年まで遠藤弥太郎先生と3年の間一人の先生が担任であった事も幸いした.前半の3年間は音楽、絵画を主とした情操教育を、後半の3年間は学問の厳しさを教えられた。松本先生は白浜、天橋立などあちこち教え子連中を連れて行かれそれにお供した懐かしい思い出もある。



(写真8、9、10、11)また小学校3年の頃だったと記憶しているが唱歌が上手かったらしくクラス代表によく選ばれたものだ。この時代テープコーダーもなく録音出来なかったのが残念であるが (記録に残しておく事の大切さ!!)それに加えて父の従妹に当たる内村氏が習字の先生をしており安井小学校の前でその塾を開いており習っていたこともあり習字も得意だった。(この記録は写真15に残っている)
これに対し遠藤先生は勉学に厳しく“成せば成る成さねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり”の意気込みを幼い心にたたみ込むように言われていたのを思い出す。言うまでもない米沢藩主上杉鷹山の言である。後年、自伝“教育行脚五十年”の中、第四章安井小学校時代にも記されているが、この学年の出来のいのに驚いておられる。安井小学校時代の書き出しにこう書かれている。「人間万事塞翁が馬」昔の人はよい事をいっている。人間は何が幸になるかわかったものでない。幸か不幸かではなく、幸にも安井校に転勤させてもらったことは、神の助けであった。毎日毎日喧嘩ばかりしていては、人間はしまいには力がつきてしまう。青春の私も三十歳台にはいっている。そろそろ矛先も鈍ろうとしていた。もしあのまま島田校長の下にいたら、だんだん丸められて、自分の個性を失って売名校長の真似事をするような校長で終わったかもしれない。安井校転勤はまことにありがたい転出である。――中略――{まるで夏目漱石現ぼっちゃん版である}さらに続く普通一.二番は神戸一中か北野中学かといったところであったが私のころは北野中学の希望者は全なかった。だから神戸一中、甲南、尼崎中学といったところから関西学院、西宮商業、神港の受験者で大体うずまっていた。現在(昭和四十八年)四十六歳になって男ざかり、働き盛りの人生行路を歩んでいるが、私の頭の中にある卒業生の学歴の一端を書き残しておく事にする。東京帝国大学(現東京大学)出身は松尾鉄雄君と村上洋君の二名。京都帝国大学(現京都大学)出身は河内清君(工学部)、渡辺亨君(工学部)、西村功君(農学博士)の三名以外に京大在学中惜しくも亡くなった能勢紀和君をあわせると京大は四名の入学者である。名古屋帝国大学(現名古屋大学) 出身は小松英一君。大阪帝国大学(現大阪大学)出身は武居明君、山村寛君(後父の名を襲名山村徳太郎君)富久正三郎君の三名。外に北海道大学出身の山本博三君、慶応大出身の今井一郎君、上智大学出身の河内信行君、岐阜大学出身小松原行君、京都府立医科大学出身伊藤篤君(出版後わざわざ追伸として頂いた手紙に私の印象としてー昔の安井小学校時代の熱心な真摯なこつこつと一心不乱な姿は今も目の当たりに彷彿させるものがあります。国語や算数の整然とした美しい字は今もはっきりと私の脳裏に奥深く刻まれています一度焼きついた強烈な印象は生涯消えないものでしょうーと記してあった)大阪市立医専後の大阪市立大学医学部出身黒田実君(両君とも現在医学博士)等その他多士済々の人材が轡を並べている。 とにかくどんな点からいっても素晴らしいが特に一般普通の公立小学校の一クラスの出身者の中に十数名以上の者がかくも有名大学にずらりと席をおいたことはなんといっても特筆すべき偉観だとっている。教壇に立ってまさに十年男盛りの三十歳台にこのような能力あるクラスとの出会いに不思議な縁があったことを神の恵みと今も感謝の念にたえない。教育書一冊さえ読まない教師としては失格の私が、森本大物校長のもとに私のもてる力のすべてを捧げた、唯それだけのことである。五十年の教員生活中の最高潮の時代といってよいかも知れない。と更に続いているが。後年遠藤先生を囲んでのクラス会78年12月の 写真(12)である。中央に遠藤先生と私、向かって右が武居明君、左が黒田実君(故人)その隣が涌島君とわれわれのトップだった松尾鉄男君の笑顔も懐かしい。当時、灘、甲陽はこれらの滑りが入ったもんだ。今は両先生も亡くなられ又小学校のクラス会もなくなったが。

小学生の思い出の写真として37年頃の家族写真13及び39年頃の写真14を残しておきたい。 (紅顔の昔なつかし美少年)


面白いエピソードがある。小松英一君の記憶として遠藤先生はこう述べておられ。多くのえ子の中でこれほど愉快な生徒はそう多くはあるまい。えてしてインテリ階級の子弟に中にはがり勉が多い。そんな中にあって小松君は異色の存在である。 お母さんはすばらしい賢母であった。真の教育ママといえよう。世の多くの似非教育ママのもって手本とするに足るべき人である。お母さんはあるときこんなことをいわれた。「私は子供の小学校時代六年間鉛筆は一度も子供には削らさず全部私が削りました。それは鉛筆の使用程度とノートを見ると、学校での勉強状態をそれとなく知る事が出来る。」と、流石小松君のおかあさんだけあって着眼点が異なっている。――中略――兄の小松君より弟の方が世間には名がよく通っている。今売り出しの作家小松左京氏はすぐ下の弟である。
何故小松君のことを引っ張り出したか。何を隠そ 実は小松君とは竹馬の友であり、社会人となってから私の妹小草と暫く交際をしたこともあり、驚くなかれ美沙子が 私との前に お見合いをしていたことである。この若松台に居を構えてから一度私の宅に一泊した事がある。例の如くバイオリンをもって。かって自分の指をしめし左が右に比べ長い事実を示した事を思い出した。それほどバイオリンに熱心だったことを言いたかったのであろう。それは兎も角美沙子との再会の反応を見たかったのだが。分かっていたが分からぬ振りをしていたのか全然分からなかったのか、いまだもって分からない。遠藤先生が言われたとおり面白い愉快な男である。 写真9,10,11で矢印が私、二重矢印が小松君である。
遠藤先生が追想として語られたうち 神戸一中の内申書の欄に「小松君は貴校を受験する。安井校では従来クラスで2、3番以内のものが常に受験している。今回受験する小松君は序列こそ2,3番の中には、入っていないが、実力は十分持っている。序列が下だからといって冷やかし半分の受験ではない。試験の結果が即実力と判断してもらっては困る。と。本人はといえば入試当日漫画の本をさも楽しそうに読み耽っていたようだ。見事失敗、甲陽中から四修で松江高 名古屋大 三洋電機と進むわけだがこんな優秀な彼より又良妻賢母を持ちしかもバイオリンが好きだからピアノを弾ける女性をと望んでいたに違いないのに彼りも私を選んだ理由は?恐らく彼のそういった態度 人を食った面が不真面目と写ったに違いない。見合いという入試の面接に近い雰囲気の中ではいたし方ない所だが。
竹馬の友と言えばもう一人河内信行君も加えてをかねばなるまい。お父さんは 宝塚歌劇の重役お母さんはと言えば小松君のお母さんに ひけをとらぬほどの良妻賢母だった。彼は六甲中から上智へのコースをとっlたが。現在どうしているのか 何をしているのか分からない。
この二人の賢母に比べ私の母はいささか見劣りはするが。
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