プロフィール

先ず私の略歴を述べておこう。

幼稚園には三兄妹共に行かせて貰えなかった。この時代幼稚園に行く家庭はごく限られていた。 

33年西宮市立安井小学校入学 サイタ サイタ サクラガ サイタの教科書だった。

本文にも述べてあるが小学校6年間の前半3年間松本仁一先生はj情操教育に熱を入れられ私は 習字、音楽などが得意でとくに唱歌はうまかったようだ。後半の3年間は遠藤弥太郎先生に学問の厳しさを教え込まれた。この年代の人々は小学校六年の卒業時には教育勅語を全文全員が暗誦できた。いやさせられたものである。だからこの教育勅語が我々の生活の根本理念となっていた。そして身についていた。戦後レジーム特に教育革が叫ばれいる所以でもある。ここに全文を記してをく。

(写真番外)

教育勅語




古いと思われるだろうが。

その上、背に薪、手には書の働きながら学んだ二宮金次郎の像が我々少年の目標だった。そして私たちに基本となるべき道徳の心を育ててくれた。遺訓にも 「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ。」金次郎像は見なくなったが、あの学び続ける心は豊かな社会になっても受け継ぎたい。

39年兵庫県立尼崎中学校入学 以下、思い出は本文を参照いただきたい。

とも角戦時中 空襲 空襲で 楽しい思い出など無かった。それでも

46年京都府立医科大学予科入学後の青春時代は楽しく 青春 を大いに謳歌した。

51年妹の長女小草 膳耕造氏と結婚。府立医大予科同級生棟造の兄(慶応義塾大学経済学部出身だが職安定せずこの当時ベークライトの販売をしていた) また後々阪大一外に入局するきっかけとなった大橋先生と姻戚関係となる。

53年京都府立医科大学本科卒業 同年次女やよい結婚 小辻糺氏と。(北野中学、大高、阪大航空学部出身)阪急宝塚歌劇団勤務

54年3月大阪住友病院インターン終了(当時新大阪病院と言った)

同年8月6日医師国家試験合格 医籍152582号 同時に大阪大学医学部第一外科に入局 前述した様に親戚にもなった大橋先生のお勧めもあり。ライターは始め村田当太郎先生次に岡益尚講師。

55年7月大阪府立病院外科勤務. 

          外科部長田辺孜先生。院長小沢凱夫先生。

57年2月6日結婚式(宝塚ホテル) 媒酌小沢凱夫先生  

58年 外科研修のかたわら犬の心臓実験に明け暮れる。 6月6日章誕生

59年2月6日医学博士授与

61年2月11日奏誕生 3月23日 麻酔標榜医 2073号(厚生省)

62年4月大阪労災病院へ転出命令 5月1日同外科医員 

             外科部長岡益尚先生。院長小沢凱夫先生。

64年岡部長和歌山医大教授栄転(当初和歌山には行かないと言われていたに拘わらず君子豹変と小沢先生嘆かれていた) 後任部長に小沢院長苦悩。 

66年7月1日 大阪労災病院外科部長に任命(私に白羽の矢が立つた)

68年9月日本災害医学会評議員

70年4月~大阪大学医学部講師  堺市医師会各種委員会所属

74年10月美沙子 大阪調停委員に任命さる

84年4月大阪府医師会医学会運営委員

86年5月大阪労災病院副院長 兼務  大阪労災看護専門学校副校長

86年11月日本臨床外科学会評議員

88年4月日本外科学会評議員      同年日本消化器病学会終身認定医 S0319号 日本肝臓学会 認定医

89年1月8日昭和より平成と年号改まる。

90年4月~99年5月日本外科学会保険診療委員

91年4月大阪府医師会労災部会常任委員 堺市医師会運営委員 日本消化器外科学会認定医 大阪労働基準局労災保険診療費審査委員 日本外科学会認定医

91年4月大阪労災病院看護専門学校長 兼務 大阪府医師会労災部会副部会長

92年3月大阪労災病院年退職  5月日本胆道外科研究会特別会員

同年5月1日医療法人財団幸循会副理事長OBPクリニック所長

95年6月大阪労働基準局労災保険診療費審査委員長 兼 労災協力医

96年9月医療法人財団幸循会りんくうタウンクリニック所長

97年4月29日 美沙子多年調停委員としての職責を全うした労効にたいして藍綬褒章

2000年8月章と奏の学位取得と結婚祝賀会於ロイヤルホテル堺で挙行したがその後 9月脳梗塞で入院 幸い運良く殆ど後遺症なく回復したが

01年幸循会退職

02年介護老人保健施設(泉佐野栄公苑)で1年間勤務した後休職且つ休養

03年4月29日 美沙子勲五等瑞宝章

美沙子は調停委員として数々の賞を受けたのに反し私は永年病院勤務に対する賞とか府医師会労災部会副部会長としての賞しか受けていない。其のほかせいぜい賞と呼べるものには老人性痴呆しょう しかない。

07年2月金婚式 内輪だけでロイヤルホテル堺にて.

 

続きを読む "プロフィール"

|